μの軌跡・幻編 第16話「別れ、そして誓い」
【人間→ポケモン】
もし、この世界で最も断つ事の出来ないものは何か問えば、答えの一つは誰かと血が繋がっているという事実かもしれない。 親であるとか子であるとか兄弟であるとか、そういう関係は形式的には断ち変える事が出来るが、 だとしてもその身に流れる血が変わることは無い。それを望まないなら、その血が流れないようにするしかない。その血を止めるしかない。
『そんなに、俺が憎いか!』
空を飛びまわりにらみ合う2匹のポケモン、内の1匹であるリザードンがもう一匹のポケモンであるルギアに対して、大きな声で吼えた。
『それは君のほうだろう?・・・僕は血を守るために、君と戦う。ただそれだけだ』
『お前は・・・何時だってそうだ。守るために何かを壊していく・・・』
『壊して守れるものがあるなら、僕は迷わずそれを壊す』
ルギアはその翼と化した腕を大きく振るい、風を掻っ切りながら一気にリザードンへと接近した。
『取っ組み合う気はねぇよ!』
リザードンもまた、翼をはためかせて身体を大きく後ろに仰け反らせ、そのまま身体を上下逆さまにして滑降するように高度を下げた。
『逃がさない!』
『逃げねぇよ!』
リザードンは長い首を大きくうねらせながら顔を上へと向け、追ってこようとするルギアに対して大きく口を開く。 その口に急速に熱がこもり、光が生まれ大きくなっていく。ルギアははっと気付くと大きく翼を動かし、リザードンを追うのを辞める。と、 同時にリザードンの口からは一つの太い火柱が放たれた。ルギアは間一髪でこれをかわし、 宙で一つ縦に一回転しながらもう一度リザードン目掛けて飛び込もうとするが、その隙にリザードンは火柱を吹いたところから移動しており、 見失ってしまう。
『遅いんだよ!』
『ッ!』
リザードンの猛々しい咆哮が轟くのとほぼ同じ瞬間、ルギアはその長い首に大きな衝撃を感じた。はっとして辺りを見ると、 リザードンが長い尻尾を勢いよくルギアの首に叩きつけた様だ。そしてそのままリザードンは尻尾をルギアの首に巻きつける。
『ぐっ・・・この・・・!』
『お前は・・・やりすぎたんだよ!』
リザードンは尻尾に力を込めてルギアの顔をぐいと引き寄せ、その小さな手をぐっと握り締めてルギアの顔目掛けて思い切り殴りこんだ。 ゴッ、という鈍い音がかすかに鳴り、ルギアの顔はかすかに歪んだ。
『・・・取っ組み合う気は、無かったんじゃないのか?』
『あぁ、無いさ・・・だが、お前だけは一発殴らないと気が納まらなかった』
『へぇ?じゃあもう、気が納まったのかい?』
『納まる・・・わけがないだろう・・・!』
ルギアの軽率な言葉に、リザードンはぐっと何かを噛み締めるように、牙を鳴らした。ルギアは、リザードンの渋い表情を見て、 薄らと笑みを浮かべながら囁いた。
『それが・・・答えさ』
『何・・・?』
『感情に流されて、翻弄されてきた君の・・・限界って事さ』
そういうと同時に、ルギアは大きな両翼で思い切りリザードンを突き飛ばそうとする。リザードンは体勢を崩し、 ルギアの首に絡めていた尻尾が解ける。
『限界・・・だと・・・!?』
『・・・君は何時だってそうだ。感情に任せて行動して・・・だけど、何も出来ない弱さに気付いて、そして悔やむ・・・僕はずっと、 そういうトウヤを見てきた』
『俺は・・・もう昔の弱い俺じゃない・・・!』
『弱いさ。僕に比べれば』
2匹のポケモンは翼を大きくはためかせて、空中で体勢を整える。そして、さっきまでとはうって変わって静かににらみ合い始める。
『・・・君は自制が出来なさ過ぎる。考えが足りなさ過ぎるのさ。・・・自分では冷静に努めているつもりでも、 さっきみたいに僕の顔を見ただけで、あんな殺意を滾らせて、まだ人間の姿だった僕に殴りかかってくる。・・・まるで、 野生のポケモンのように』
『理屈を並べて、言い訳しながら、感情を押し殺して罪を重ねるお前に・・・俺のことを言う資格は無い!』
『・・・逆なら・・・良かったのかもね』
『・・・何がだ・・・?』
飄々とした素振りで話すルギアを、リザードンは鋭く睨みつけて問い返す。
『君と僕の立場がさ。君が神の立場で、僕がそうでないものであれば・・・僕たちは上手くいっていたのかもしれないし、それに・・・』
ルギアは、すっと目線を一瞬だけ、地面のほうへと向けた。自分の連れであるロコンと、 そのロコンと対峙する様にしてたたずむ人間の少女とピカチュウの姿が目に入った。それを見つめながらルギアは一つ小さく息を吸い込み、 小さな声で言葉の続きを呟いた。
『それに・・・”彼女”だって、生きていたかもしれないしね』
『ッ・・・貴様ァ!』
ルギアのその言葉に、リザードンは目の色を変えた。再び大きく腕を振り構え、翼を大きく一振りして、瞬間にルギアの傍へと寄り、 飛びかかろうとしていた。
しかしそれだけの大きな動作が、ルギアに見切れないはずは無かった。まるで子どもが投げたボールを軽々とかわす大人のように、 ルギアは真っ直ぐ自分に向かってくるリザードンを避け、そしてその後姿をしっかりと目で確認し、今度は自分の尻尾をリザードンの首に絡めた。 まるで、さっきリザードンが自分にやったかのように。
『ぐっ・・・!』
『どうだい?自分が使ったのと同じ手で苦しめられるって言うのは?』
『く・・・そぅ、このっ・・・!』
『考えが甘いよ。君と同じく長い尻尾を持っている僕が・・・そしてこの僕の性格で、君と同じ技を使わないと・・・思ったかい?』
『放せ・・・ビャクヤァ・・・!』
ルギアの尻尾から逃れようと、リザードンは翼やら尻尾やら、兎に角全身を動かした。しかし、 ルギアは尻尾に力を込めて首を更にきつく絞め、もがくリザードンの動きを抑えた。
『これが、感情で動く君の弱さ。この弱さが無ければ・・・”彼女”も守れたかもしれないのにね』
『お前が・・・その口で、そのことを・・・言うなぁ・・・!』
『・・・君自身の弱さを棚に上げて・・・僕のことばかり責める・・・君は、いつだってそうだった。・・・いつだって』
そう語るルギアの表情は、少しだけ曇っていた。それが歯痒さなのか違うものなのか、それはルギア本人にしか、 ビャクヤにしか分からないことだったし、トウヤには彼の表情を窺う余裕など無かった。ただ、 ルギアの尻尾から抜け出そうともがくばかりだった。ルギアはその様子に一つため息をつくと、 翼を一つ大きく振りしっぽで捕らえたリザードンごと空中で一つ宙返りをする。
『その結論が・・・これだ!』
そして、遠心力の勢いを受けて、ルギアは下方に向けてリザードンの身体を放り投げだした。 大きく運動エネルギーを受けたリザードンの身体は、自分の翼でバランスを維持出来ないほど加速していた。しかし、 ルギアは攻撃の手を緩めなかった。さっきリザードンが火を噴いたときと同じように、身体を大きく仰け反らせて口を大きく開いた。しかし、 その口元には炎ではなく、水が集まっていき大きな球へとまとまっていく。
リザードンに、それは見えていた。見えていたが、リザードンにはどうすることも出来なかった。ただ、 重力に引かれて地面へと落ちていくだけ。そしてルギアはその様子を静かに確認すると、仰け反らせていた身体を大きく前に突き出した。刹那、 ルギアの口元からは大量の水が、一つの束となってリザードンに向かって放たれた。その勢いは、重力を受けて圧倒的な加速を得て、 先に落ちていったリザードンにすぐに追いつき、その落下を更に勢いづかせた。
いよいよリザードンには何も出来なかった。自分の身体の自由が利かない状況に、苦手な水を大量に浴びた今、 抵抗する力さえ出せなかった。抵抗しても、強力な水圧に全て押さえつけられてしまうだけだった。・・・そして、 リザードンの身体が大きな音と砂煙、そして水しぶきをあげながら地面に叩きつけられた。
「トウヤぁっ!」
それを、少し離れたところで見ていたタツキ。・・・そう、ただ見ていただけだった。空中でルギアにリザードンが捕らえられ、 放り投げられ、巨大な水柱で地面に叩きつけられるまで、タツキには見ていることしか出来なかったのだ。・・・ もしタツキがハクリューの姿ならすぐにでも駆けつけられるのに、今のタツキは人間の姿なのだ。トウヤを助けたくても、助けることが出来ない。
(こんな時に・・・私は・・・!)
何も出来ない悔しさが、タツキの表情にこみ上げてきた。ビャクヤにかけられた上着の袖を、ぎゅっと強く握り締め俯く。
『悔しそうね』
不意に、横にいたロコンがタツキに声をかけてきた。しかしタツキの返事は無かった。 ロコンは俯くタツキの顔を見上げるようにしてしばらく黙っていたが、やがてタツキの耳元に口を近づけると、小さな声で問いかけた。
『どうして、貴女が悔しそうな表情をするのかしら?・・・ビャクヤは貴女の命の恩人で、人間の姿にも戻してくれた。 対してトウヤは貴女に・・・何かしてくれたかしら?』
『そういう問題じゃない!・・・誰かが・・・苦しんでいるのに、私は・・・黙ってそれを放っていることなんて出来ないの!』
『お節介なのね、貴女』
ロコンは呆れたように言い、ふいとタツキの顔から目をそらした。そして再び、空にたたずむルギアのほうを見ながら言葉を続けた。
『助けに行きたければ、助けに行けばいいんじゃなくて?』
『・・・でも、私は・・・!』
『貴女は、アルファなのよ』
ロコンはすっとタツキのほうを振り返り、鋭い口調でそう言った。その目も、きっと鋭く光っていた。 その威圧感にタツキは一瞬びくっとなってしまうが、すぐにカレンの言葉を自分の中で反芻した。そう、タツキはアルファ。 アルファはポケモンに変身できる人間のこと。でも、さっきようやくビャクヤの力でポケモンから人間に戻ることが出来ただけで、 自分の意思で変身したことは無かった。そんな不安そうな表情のタツキをみて、ロコンは更に話を続けた。
『大丈夫、貴女はアルファ。・・・貴女が自分をポケモンだと思えば、貴女はポケモンなの』
『私が・・・ポケモン・・・』
タツキは、小さく呟いた。自分がポケモン。・・・ついさっきまでタツキはハクリューの姿だったが、 それまでタツキは自分がポケモンであるという意識はあまり無かった。あくまで自分は人間からポケモンになっただけ、そういう気持ちでいた。 どこかで、自分がポケモンであることを、認めきれずにいたのかもしれない。
(そうか・・・そういうことなんだ・・・)
前にトウヤに空の飛び方を教えてもらった時『初めてポケモンに変身したアルファが人間の姿に戻るには、まずその身体に慣れる事』 と言っていた。つまりそれは、自分がポケモンであることを認めることが出来て、初めて”自分がポケモンであることを否定すること”が成立し、 人間に戻ることが出来るのだとタツキはようやく理解した。
(私は・・・トウヤを助けたい・・・助けるために・・・ハクリューにならなきゃいけない・・・ううん、違う・・・私は・・・ )
タツキは目を閉じて、自分の心の中で考えを巡らせる。トウヤを助けたい。ビャクヤには色々と恩が有るけれど、 それでも血の繋がった兄弟をあんな風に痛めつけようとするのは許せない。・・・それはトウヤも同じだけど、 今一方的にやられているトウヤを助けなければ、トウヤの命に関わってくる。・・・もう、目の前で自分の知っている人間を失いたくは無かった。
だから、認めよう。私が今求めている”私”が何なのか。そう、私は・・・。
(私は・・・ポケモン・・・ポケモンの・・・ハクリューなんだ!)
その瞬間、タツキの中で何かが弾けた。タツキの中で、人とポケモンという2つのタツキを隔てていた壁が光となって消えていくのを、 タツキは感じていた。まるでその光が身体の内からあふれ出るように、タツキの身体が薄い水色の淡い光を放ち始める。そしてその光が、 タツキの輪郭をおぼろげにしていく。
タツキがビャクヤにかけてもらった上着からそっと手を放すと、彼女の手は光に包まれ、やがて静かに短くなっていく。そして肌の色は、 光に包まれながら徐々にその光と同じ水色へと変化していく。
「ぅん・・・!」
タツキは変化に耐えるように、小さく上体を反らしながら唸った。すると彼女の幼さの残る少女の身体が、徐々に人の形を失っていく。 細く、長く、身体が引き締まっていく。胸元に光が集まったかと思うと、それが一つの丸い水晶のような球体となって、彼女の胸元で光を放つ。 彼女の身体を支えている脚もいつの間にか短くなっており、代わりに胸と同じような水晶が先っぽに付いた尻尾が、 ビャクヤがかけてくれた上着の下からひょろっと顔を見せたかと思うと、見る見るうちに長く伸びていった。
やがて彼女の顔の形も変わり始める。顔の皮膚も水色に変色したかと思うと、鼻がくっと前に突き出し、額からは小さく、 だけど立派に尖った角が生えた。耳があったところからは柔らかな羽根が生え、それらの代わりのように、 彼女の長い髪は光と共に静かに消えていた。
そして少女・・・だったポケモンは、その身を大きく反らし、顔を天に向けて小さな口で、だけど高らかに声を上げた。
「リューーーッ!!」
それは、誰が聞いてもポケモンの鳴き声だった。まるで雨と風が音を奏でるかのような、美しく、涼やかで、高貴で・・・寂しげな、 美しい声だった。そして、そのはずみで彼女が身につけていた、ビャクヤの上着は身体からずり落ちていった。そしてあらわになるその姿。 それは紛れもなく。
『ハクリュー・・・だ。私・・・ハクリューに戻れたんだ・・・!』
タツキは自分の身体を見渡しながらそう呟いた。・・・元々が人間なのだから”ハクリューに戻れた” という表現はやや正しくはないのかもしれないが、彼女にとってはこの10日近く過ごしたハクリューの姿のほうが、 よほど今の彼女らしかったのかもしれない。同時にそれが、彼女がアルファとして、ハクリューとして自覚した瞬間でもあった。
『言ったでしょ?”貴女が自分をポケモンだと思えば、貴女はポケモン”って。・・・それが、アルファなのよ』
『・・・カレン・・・だったよね?どうして・・・私に、そこまで色々教えてくれるの?貴女は・・・ビャクヤの味方じゃないの?』
話し掛けて来たロコンに対して、タツキは問いかける。・・・勿論、ポケモンの言葉で。カレンは、少し俯いて考えた素振りを見せたが、 すぐに目の前のハクリューを見上げながら答えた。
『私は”ビャクヤの味方”であって、”貴女の敵”ではないわ。・・・それに・・・貴女にも・・・可能性を感じるから・・・ かもしれないわね』
『私の・・・可能性・・・?』
『えぇ・・・貴女は・・・多分、”何かを変えられる” 存在なんだと思うの。・・・或いは、ビャクヤとトウヤの宿命を・・・ 変えられる存在なのかもしれない』
ロコンは目線を、リザードンとルギアが降り立った方に向ける。
『・・・早く助けに行ったら?ビャクヤは・・・本気よ』
『そうだ・・・行かなきゃ・・・!』
『もっとも、貴女が行けば・・・リヒトは私たちの手に落ちることになるけれど』
ロコンがわざとらしく意地悪気にそう言うと、ハクリューははっとしてリヒトのほうを振り向いた。複雑な表情でたたずむピカチュウは、 潤んだ円らな瞳でハクリューを見つめ返していた。・・・ビャクヤの元々の目的は、リヒトを連れ出すことにある。今、 タツキがリヒトの傍を離れれば、ビャクヤの仲間であるカレンによって間違いなく連れ去られてしまうだろう。
タツキはしばらくリヒトのことをじっと見つめていたが、急にふっと笑みを浮かべて、小さく口を開いて答えた。
『いいよ。別に』
『・・・え?』
『別にリヒトの一匹や二匹ぐらい、捕まえても』
『ちょっと待てー!?急になんだよその態度!パートナーに対してだとしても、弟に対してだとしても、反応おかしいだろ!? 大体僕は一匹しかいないぞ!?』
『だってほら、そうやってガンガン突っ込む余裕あるなら、別にちょっとぐらい拉致られてても平気だって』
『平気じゃない!』
『ひょっとして、寂しい?』
『さ、寂しいわけないだろ!』
『私がいなくて・・・寂しくないの?』
『え?・・・寂しく・・・なんて・・・』
『・・・そっか、それなら安心した』
タツキの言葉に、ピカチュウの目は動揺していた。寂しくなんて、ない。最後にもう一度そう言い切ろうとして言い切れなかったのは、 やはりまだ何処かに、タツキへの想いがあるのか。タツキ自身もそんなことを考えながら、自分とリヒトの複雑な関係に、少し苦笑いを浮かべた。
『ビャクヤは・・・多分リヒトのこと、乱暴にしたりしないだろうし。リヒトと離れるのは不安だけど・・・その様子なら大丈夫だよね。・ ・・カレンみたいにかわいい子が一緒なら、寂しくなんてないか』
『ちょ、待ってって!何を言ってるんだよ!僕は・・・!』
『クサカ リヒトの、身の安全は、私が保証するわ。・・・多少、運動能力や耐久力を測らせてもらうこともあるかもしれないけど』
『そう。・・・じゃあ、リヒトを宜しく頼むってビャクヤに伝え・・・あ、やっぱりいいや。トウヤ助けるついでに、自分で言うから・・・ 』
『だから、待てって言ってるだろ!』
タツキの言葉を掻き消すように、ピカチュウの鳴き声が響いた。ハクリューとロコンはすっとピカチュウのほうを改めて振り向いた。 ピカチュウは目を潤ませながら、2匹のメスポケモンをじっと見つめ、唇を震わせながら言葉を続けた。
『どうして僕の意思を無視して、話進めるんだよ!どうして・・・タツキはいつもそうやって・・・僕をおいていくんだよ・・・!』
『・・・簡単だよ。そんなこと』
『・・・え・・・?』
『私は、リヒトが私の後をついてきてくれているって信じている。だから、私は前を見て歩いていける。・・・それにもし、 リヒトが私の後ろにいないって気付いたら、その時リヒトを連れ戻せば良いんだと、私は思ってる』
『・・・タツキ・・・僕は・・・!』
リヒトが、何かを言いかけた瞬間、遠くで何かの衝撃音が響いた。3匹のポケモンははっとしてそのほうを振り向く。・・・ ビャクヤとトウヤが戦っているほうだった。
『じゃあ、私いくから!』
タツキはそのまま頭の羽根を細かく震わせると、その身体を中に浮かび上がらせて、 身体をうねらせながらスピードを上げてトウヤ達のいるほうへと飛び去っていった。リヒトはその様子に、 声もかけることも出来ずにただ呆然と見ていることしか出来なかった。
『強いわね。彼女』
空を滑るように飛んでいくハクリューの姿を見上げながら、ロコンは静かに呟いた。
『・・・憧れ・・・だったのかもしれない』
『・・・憧れ?』
ようやく重い口を開け、ピカチュウが小さく声を出した。ピカチュウの表情は何処か、力が抜けたような呆けた顔をしていた。
『ずっと、後姿ばかり見ていたような気がする。・・・頭が良くて、成績はずっと学年で上位。運動神経と腕っ節が強くて、 柔道は全国でベスト8まで行った事もある。性格も明るくて、お節介なほど優しくて、他人のことばかり気にしていた。・・・ずっと・・・ 後姿ばかり見ていた・・・憧れ・・・だったんだ。・・・だから・・・』
『だから、姉弟だと知らなければ、恋愛感情を抱いても仕方が無いし不思議でもない。・・・そういうことかしら?』
『肯定も否定もしないよ。けど・・・こういう運命を導いた、ビャクヤと君の事は・・・少しだけ、恨むかもね』
ピカチュウは、ロコンに視線を落とし、彼女のほうを見ながら口元だけ笑って見せた。疲れたような表情のピカチュウを見ていたロコンは、 少しだけ心に何かが引っ掛かるのを感じ、目線を反らした。
『・・・一つだけ、聞かせてくれない?』
『何かしら?』
『僕は記憶を取り戻した。・・・そして君は、記憶を失う前の僕を知っているような口調で話をしていた。・・・だけど、 僕のかつての記憶には・・・カレンと言う名前に心当たりが無い。ロコンにも・・・人間にもね』
ロコンは顔をリヒトから背けたまま、リヒトの言葉を噛み締めるように聞いていた。リヒトはそんな様子のカレンに何かの手ごたえを感じ、 少し間をおいて、気持ちを静めるよう心の中で言い聞かせながら、一つ問いかけた。
『君は・・・誰なんだ?』
『さぁ・・・誰なのかしら?』
『ふざけないでくれないか?』
『・・・ふざけてはいないわ。・・・事実を言ったまで』
『・・・まさか、君も・・・!?』
『少しは・・・クサカリヒトの記憶の中に、私の記憶があるかもと思って期待したのだけれど』
ロコンは、寂しそうな口調でそう答えた。ピカチュウはさっきまでの強気な口調とはうって変わって、目線が泳いでしまう。・・・ 彼女に悪いことをしたという罪悪感が、妙に胸をかきむしっていた。
『私が貴方のことを知ったのは、貴方が記憶を失った後・・・ピカチュウになった後。ビャクヤと行動を共にしていた私は、 あなたのことを知って興味を持った。人間がポケモンに変身し、更に記憶を失う。・・・ひょっとしたら、 私が記憶を失っているのも同じ理由じゃないかって。私も・・・本当はロコンじゃなくて、人間だったんじゃないか。そう・・・思いたくて』
『・・・カレン・・・』
『だから、貴方のことを調べた。・・・さっき言った、「貴方以上に貴方のことを知っている」っていうのは、そういう意味よ。・・・ かつての貴方のことは私の記憶には無かったわ。・・・そして結局、貴方からは何も分からなかった。私が本当のポケモンなのか、人間なのか。 何処の誰なのか・・・だけど、貴方が記憶を取り戻してくれたことは私にとっては収穫ね。”記憶は戻るもの”っていう前提は、証明されたもの』
ようやくロコンはピカチュウを見上げながらそう答えた。逆に今度はピカチュウが思わず目線を反らしてしまう。
・・・皮肉だと、思った。
記憶を取り戻すことを望んでいなかったリヒトは記憶を取り戻し、記憶を取り戻すことを望んでいるカレンの記憶は失われたままなのだ。 カレンも同様に、皮肉だと思っているのだろうか。或いは、リヒトが先に記憶を取り戻すことは彼女の筋書き通りだったのだろうか。
『・・・それで、どうするの?』
『え?』
『このまま・・・大人しく捕まってくれるのかしら?・・・逃げるなら、今のうちよ』
『・・・いいよ、別に。君たちから逃げることに・・・大きな意味は無いし』
『・・・そう。それなら、いいけど。抵抗されるよりはね』
ロコンはやや頭を下げ気味にして、上目遣いでリヒトのことをキッと見つめた。リヒトは一つ素早く唾を飲み込み、咳払いをした。
『さて・・・と。じゃああと・・・もう1匹ね』
『・・・もう1匹?』
『えぇ。もう1匹、連れて行きたいポケモンがいるわ。・・・ね?先輩』
そう言いながらロコンは、ある方を向いた。リヒトもつられてそちらに顔を向けて・・・はっとした表情を浮かべた。 見てはいけないものを見てしまったような、表情だった。
そこには、頭も耳も尻尾もしゅんと下げて、意気消沈している一匹のグラエナがいたのだ。
『あ・・・ラズ・・・いたんだ』
『いたんだ・・・じゃねぇだろ!?ずっとこの場にいたのに、3話近くも無視しやがって!』
『ちょ、3話とか生々しい時間軸出さないでよ!最近ようやく幻編のギャグが少なくなってきて、まともな話になってきたのに!』
『うるせぇ!真面目腐った話ばかり続けて、人気有る奴の特権じゃねぇか!俺は・・・俺はどんな思いで、 ここまでの会話を蚊帳の外で聞いていたと思ってるんだ!?』
『や、それはそれとして・・・ていうかラズ、キャラ変わっちゃってるから!もっと男らしくてかっこいいキャラでしょ!?』
『知ったことかぁ!俺だってなぁ・・・俺だって・・・色々とトウヤにもビャクヤにも、タツキにもリヒトにも・・・ 言いたいセリフとか有ったのに・・・台無しだよ!』
『今そのセリフが一番台無しだよ!』
うっすらと涙を浮かべながら吼え散らかすグラエナに、ピカチュウは口を大きく広げながら反論する。 まるで駄々をこねる弟を諭す兄のようだった。
『あぁ、もう。男って本当に面倒くさいわね』
『何だと!?』
呆れた表情で首を横に振りため息をつくロコンにも、グラエナは食って掛かっていった。しかし、 ロコンはキッとグラエナのことを睨みつけながら、冷静な口調で問いかけた。
『それで、どうするつもり?貴方は』
『ど、どうする・・・って・・・!?』
『・・・約束のこと。忘れたなんて言えば・・・ビャクヤ、悲しむわね』
『約束・・・いや、あれは・・・!』
『あれは・・・何?』
突然狼狽するグラエナに、ロコンは更に目を鋭く光らせて彼に歩み寄っていった。
『・・・事情が、変わっている。俺はもう・・・家族がいる。今更・・・!』
『そう、今更なの。・・・感謝してもらいたいぐらいだわ。子供が十分育つまで、待ってくれたのよ?ビャクヤは』
『それは・・・!』
『・・・ひょっとして・・・ラズ、ビャクヤと・・・?』
焦った様子で言葉に詰まるラズを見上げて、ピカチュウは言葉少なく問いかけた。ラズは渋い表情を浮かべて首を下げると、 少し間をおいて重い口を開いた。
『・・・あぁ・・・そうだ。確かに俺はビャクヤと約束をした。ビャクヤが必要な時・・・俺はまた共に旅に出ると』
『今がその、必要な時よ』
『しかし!』
『これからビャクヤは・・・もっと厳しい戦いの中に身を置くわ。・・・そのためには、貴方の力が必要なのよ。ラズ』
『だが!・・・だが・・・だとしたら・・・俺は・・・どうすれば・・・!?』
『・・・別に強制はしないわ。貴方が、選べば良いだけのこと。家族か・・・ビャクヤかを』
ロコンはそう告げると、ふいとグラエナから顔を背けた。ラズは俯いたまま、何も言わずただじっと考え込んでしまっていた。 リヒトもまたラズの深く悩ましげな表情を見ていることが出来ずに、目線を彼から反らし、別のほうへ目を向けようとした瞬間だった。・・・ 目線の先に小柄なポケモンの姿が遠くに見えた。リヒトはその姿を見て、思わず小さく呟いた。
『・・・パル・・・!?』
『あら・・・噂をすれば何とも言うわね』
リヒトの声につられるようにその方を見たカレンも、すぐにそのポケモンのことに気がつき、 すっとラズのほうを振り返りながらそう言った。当のラズは、初めは変わらず俯いたままで何かを考えていたが、しばらくしてようやく首を上げ、 リヒトの言うポケモンのほうに目を向けた。・・・その方向には確かに、 自分の子であるポチエナがこちらに向かって息を切らしながら走ってくるのが見えた。そしてポチエナは父親の傍へと駆け寄り、 その絶え絶えな息のまま、声を絞り出すように父親に問いかけた。
『ハァ・・・ハァ・・・パパ・・・大丈夫・・・!?』
『・・・パル。どうしてここに・・・』
『だって・・・大きな音がしたから・・・パパのこと・・・心配になって・・・!』
『・・・パル・・・!』
ポチエナはたまっていた何かを吐き出すかのように、切れ切れな呼吸にも構わず父親の柔らかな毛の胸に顔を押し当てた。そして父親は、 渋い表情のまま動くことも出来ず、ただ自分に寄り添ってくる息子を受け止めるだけで精一杯だった。
『・・・さて・・・ラズがどっちを取るか・・・見ものね』
『別に・・・見ものじゃないさ』
『あら・・・どうして?』
残されたロコンとピカチュウは、親子2匹からは少し離れ、彼等を見ながら小さな声で言葉を交わしていた。
『・・・ラズには分かっているはずだから』
『何がかしら?』
『信じているから・・・離れられる勇気だってある』
『・・・タツキと、貴方のように?』
『それと一緒かは、分からないけど』
ピカチュウは、ハクリューが飛び去っていった方を見上げながら、微笑んだ。気付けば、さっきまでの戸惑いや乱れが嘘のように、 心が静かで落ち着いていた。ロコンは、そんなピカチュウの後姿を、遠くに見える青空に浮かべながら見つめるだけだった。
『・・・どっちで、呼ぶのかな?』
『え?』
『今度タツキに会った時・・・僕は・・・タツキのこと、タツキって呼ぶのか・・・姉さんって呼ぶのか。どっちで呼ぶんだろうな・・・ って、何となく、考えただけ』
『・・・本当・・・男って面倒臭いわね・・・』
『大事なことさ。・・・僕と、タツキにとっては・・・これからの、僕たちにとっては』
呆れたというような表情を浮かべるロコンのほうを見向きもせず、リヒトはただ遠くを見つめていた。まるでハクリューのように、 青く澄み切った美しい空を。
そしてその同じ青い空の下で、ハクリューはまさにルギアに飛びかかろうとしていた瞬間だった。 ビャクヤはその大きな腕と尻尾で弱ったリザードンのことを押さえつけていた。
『トウヤを・・・放せ!』
『おっと・・・もう来たのか』
ルギアは自分に向かってくるハクリューの姿を確認すると、口元を上げそう呟いた。
『こうもあっさり僕の呪縛を解いて、アルファの真髄に触れるとはね。父親譲りのセンスを持っている』
『聞こえなかったの?トウヤを放して!』
『・・・これは、僕とトウヤの問題。君が出てくるのは、道理が通らないんじゃないのかい?』
『私はただ・・・私の目の前で誰も傷ついたり・・・命を落としたりしてほしくないの!』
『僕が、トウヤの命を奪うとでも?』
『貴方の目は・・・濁っている・・・!』
『・・・対して君は、本当に良く見えている・・・だが!』
ビャクヤは何処か嬉々とした声と表情を浮かべながら、その大きな翼を器用に使い、リザードンの首を握りその身体をぐっと持ち上げ、 ハクリューの目の前に掲げて見せた。
『ッ!トウヤァ!』
『グッ・・・ゥゥ・・・!』
『君は、まだ甘い。・・・放せと命じられて放す様な、素直な人間だと、僕のことをそうとでも思ったのか?君の言う通り、 濁った目をしたこの僕が!』
『だから・・・放せっていってるでしょ!』
『或いは・・・僕を前にして怖気づいたのか?この僕に・・・あぁ、いや・・・”人間”を相手することに、かな?』
『どうして・・・貴方はそこまで・・・!』
『信じてるからさ。自分の事を』
しれっとした表情でルギアはそう答えた。・・・タツキがまず感じたのは、恐怖だった。何故この少年は、 ここまで兄弟に対して冷たくなれるのだろうか。それが、人の心の本質なのだろうかと。まして先に、明確な形ではないものの、 パートナーとしてのリヒトを拒絶し、拒絶されてしまった矢先でもあったため、タツキの心は妙にざわめき疼いた。
しかし、それと同時に感じたのは、その冷たさに対する違和感だった。何故そうまで冷酷になれる人間が、リヒトの・・・ 人とポケモンの可能性に興味を抱いたり、頼まれたからとはいえ自分たちの命を救ったりしたのだろうか。タツキは、 ビャクヤの中に確かな矛盾を感じていた。もっとも、当のビャクヤにとっては、そんなことどうでもいい話のようだった。
『僕は神の血を汚すトウヤを、許さない。・・・ただそれだけ。・・・そして、これで!』
ルギアはその翼をリザードンの首から放すと、代わりにすぐにそのリザードンの首に自らの尻尾を巻きつけ、 自由となった両翼を大きくはためかせると空中に浮かび上がった。そして二、三度羽ばたいた後、 思い切り反動をつけてリザードンの身体を海へと放り投げたのだ。既に弱りきっていたリザードンは、それに抵抗すら出来ず、 翼を動かすこともせず流されるままに海へと落ちていった。
『トウヤァ!』
『・・・さっき僕が話した、アルファの話し覚えているかい?』
『ッ・・・何を・・・!?』
『僕は他人の変身を操ることが出来る。・・・それは、変身を強制するという意味だけじゃない。相手の変身を抑制することだって出来る。 ・・・ポケモンの姿から、人間に戻れなくすることだってね』
『・・・まさか!?』
『トウヤは、人間の姿では中々水泳が得意なんだ。意外だよね。・・・だけど、皮肉にも彼が変身するポケモンは・・・』
ビャクヤが全てを言い終える前に、すでにタツキは落ちゆくトウヤを追っていた。だが、トウヤの身体はすぐに水面に叩きつけられ、 大きく激しい水しぶきを上げて沈んでいった。その水しぶきのせいでタツキは一瞬視界を失い、トウヤを見失いかけてしまう。だが、 タツキは次の瞬間に意を決して水の中へと飛び込んだ。まだ8月とはいえ、夏も終わりに差し掛かった海の水は、一段と冷たく感じられた。
(でも・・・私がやらなくちゃ・・・私が、トウヤを助けなくちゃ・・・!)
タツキはそう自分に言い聞かせて、必死で海を潜っていった。 トウヤの姿はすぐに確認できたが力の入っていない彼の身体は瞬く間に海の底へと沈んでいく。尻尾の炎は海の中にもかかわらず、 相変わらず燃えていたものの、徐々に弱まってきていた。
(そうだ・・・私が助けなきゃ・・・ビャクヤが、私を助けたように・・・今度は・・・私が!)
タツキは身体をうねらせて、水中で勢いをつけ加速すると、ようやくトウヤに追いつくことが出来た。しかし、 すっかり力を抜いてしまっているトウヤの身体は水圧を受けて更に重く、ハクリューの力では厳しいものがあった。 それでもタツキは諦めなかった。諦めれば、そこでトウヤの命を救う希望が消えてしまう。
(今、トウヤを救い出せるのは・・・私しかいないんだから!)
タツキは自分の尻尾をトウヤの身体に絡みつかせて、上へ浮かび上がろうとする。初めはトウヤの重さと重力、 水圧に引かれて押されて引きずり込まれそうになったが、すぐ体勢を立て直し海面を目指した。すぐにでも浮かび上がり、 トウヤの尻尾を空気に触れさせなければ、水に弱いリザードンの命に関わってしまう。 タツキはただ上を見上げてきらきらと輝く海面を目指して上昇していく。
(・・・ビャクヤも・・・こうやって私を助けたのかな・・・?)
自然とタツキはそんなことを考え始めていた。つい10日ほど前に海で溺れかけていたところを助けてくれたビャクヤが、 今は兄弟であるトウヤを溺れさせようとし、タツキがそれを助け出そうとする。・・・奇妙で滑稽なことだと、タツキは思ったのかもしれない。 海の中だったから、誰も、本人でさえも気付かなかっただろうが、その時タツキの目からは涙が溢れていた。
やがて、2匹のポケモンの身体は海面のカーテンを突き抜けて、大きな水しぶきを上げながら空へと浮かび上がる。一つ一つの水滴が、 光を互いに反射しあって眩く輝いていた。その内側からすっと天に伸びる煙のように、ハクリューの長いからだが躍り出たが、 共に浮かび上がったリザードンの重量にすぐに下へと引きずられ、身体を海面に叩きつけられてしまう。
『グッ・・・これ・・・ぐらい・・・!』
タツキは、再び沈んでしまいそうになるトウヤの体を支えるために、再び素早く海面の下にもぐり、今度は彼の脇と、 翼の付け根を支えるように長い体を巻きつけて、彼の身体を支えた。そして波にもまれながら海岸を目指して海を進んでいく。
トウヤを助けたい。やがてタツキの心はその思いだけでいっぱいになっていった。ただ我武者羅に、海を掻き分けていった。
『・・・美しいね。彼女のああいうところは』
その様子を、空ではルギアがじっと見惚れるように見つめていた。
『僕は、ああいうところが彼女の魅力だと思うけど、どうかな?・・・弟の立場としては』
ルギアはそう言うと、長い首をうねらせて自らの背中をむいた。そこにはいつの間にか、ピカチュウとロコン・・・ そしてグラエナがそのルギアの身体に掴まるようにして座っていた。
『魅力云々よりも、僕にはタツキが大丈夫かどうかのほうが気がかりだ。・・・姉弟だからね』
『それは、僕とトウヤのことを皮肉ったのかい?』
『・・・好きに受け取れば?』
トウヤの強張った笑顔を見ることなく、ピカチュウの目線はずっと下方の海面を横切っていくハクリューの姿だけに向けられていた。
『心配しなくても、これぐらいでどうにかなってしまうような、弱い二人ではないさ』
『どうにかならないと分かっていて、トウヤを海に投げ込んだ・・・ってことだよね?それって、本当はトウヤを・・・』
『・・・ふぅん、君は姉である彼女よりも、人の感情を読み取るのが得意なのかい?』
『さあね。・・・まぁよく、姉さんの顔色を窺っていた記憶はあるけれど』
顔では笑って見せたが、リヒトの心は勿論穏やかではなかった。すぐにでも、海面にいる彼女に手を差し伸べて救い出してあげたかった。 しかし、ピカチュウの身体ではそれは勿論出来ないことだったし、それ以上に自分に背を向けてまでトウヤを助けに向かった彼女自身に対して、 失礼だとも思ったのだ。
(タツキは・・・僕を信じたから、僕と分かれる決意をした。・・・僕も・・・僕だって・・・!)
無理に上げていた口元はやがて下がっていき、ピカチュウはその下唇を無意識のうちに噛み締めていた。そして、 熱を帯びた赤く柔らかな頬を一筋の雫が熱を冷ますように流れ落ちていった。
(僕だって・・・いや、僕が・・・強くならなきゃいけない・・・タツキの・・・姉さんのために・・・!)
ルギアの背の上で、リヒトは心の中で強くそう誓った。リヒトの表情は悔しそうなものへと変わっていたが、悲壮感は無かった。 揺ぎ無い芯が、まだ幼い彼の心に確かに通ったからなのかもしれない。
だから、その横で自らの芯が揺らぎ始めていたグラエナのことを、リヒトは気にかける余裕は無かった。グラエナが見つめていたのは、 海面のハクリューでもリザードンでもなく、遠い海岸線沿いをこちら目掛けて走ってくる小さなポチエナの姿だった。それこそ、涙を流しながら、 父親である自分を呼びながら、必死で駆けてくる彼を、ラズはただ黙って見つめていたのだ。
(これで・・・良かったのか・・・俺は・・・何がしたいんだ・・・!?)
自分が出した結論に、納得できたのがリヒト。納得できなかったのがラズ。共に悔しそうな表情を浮かべる2匹のポケモンの、 決定的な違いはそこだった。
『・・・さて、ずっとここにいてもなんだし、そろそろ行こうか』
ルギアはそういうと、ゆっくりと翼をはためかせて少しばかり更に浮かび上がった。
『あまりスピードは出さないけど・・・振り落とされないように気をつけてね』
ルギアは笑いながら、背中の3匹のポケモンに声をかけると、翼を大きくひろげ滑空を始めた。そしてぐんぐんとスピードをあげて、 島から徐々に離れていく。
『待って・・・パパ・・・どうして・・・何処に行くの・・・!?』
徐々に小さくなっていく、父親を乗せた白いポケモンの姿を、 ポチエナのパルは海岸線からじっと見つめながら父親への問いを小さく呟き続けていた。
『どうしてなの・・・どうして・・・僕と・・・ママを・・・置いてくの・・・!?』
幼いパルには、理解出来ないことばかりだった。父親が自分の前から居なくなる。そんなこと、 絶対にありえないことだとパルはずっと思っていた。家族は、仲良く一緒にいるものだと、信じていた。それを、 ある意味で母親であるレナ以上に慕い信じていた父親であるラズに裏切られた形となったのだ。パルの動揺と混乱は、 言い表せないほどのものだった。
『・・・パル・・・そこに・・・いるの・・・?』
『ぇっ・・・!?』
不意に、海のほうから声が聞こえ驚いたパルは、目線をルギアのいた空から、目の前の海へと下ろした。するとそこには、 見慣れたハクリューとリザードンの姿があった。・・・ただし、今までパルが見たこと無いほど、弱りきった姿で。
『お姉ちゃん!?どうしたの・・・そんな・・・!』
『ごめんね、パル・・・話は・・・後に、して・・・』
海面から上がってきたハクリューは、首をうねらせて、支えていたリザードンを地面に荒々しく下ろすと、 そのまま自らの体も砂浜に叩きつけるように倒れこんでしまった。
『お、お姉ちゃん!大丈夫!?』
『・・・パル・・・ドクを・・・呼んで来て・・・トウヤを・・・見てもらわないと・・・!』
『でも、お姉ちゃんの方は・・・!』
『いいから、私は、大丈夫、だから・・・』
ハクリューは、必死に笑顔を作って不安そうな表情を浮かべるパルをなだめた。パルは少し悩んだ表情を浮かべて、 左右を見渡すように戸惑っていたが、やがて意を決したのか、一つ小さく頷くと、無言でタツキの前から走り去り、 ドクの診療所へと向かっていった。
『・・・頼んだよ・・・パル・・・』
タツキは小さくそう呟くと、自らの長い体を仰向けに寝かせて、天を仰いだ。・・・自分の身体と同じような澄み切った青い空が、 清清しく広がっていた。
『・・・はは・・・何やってるんだろ・・・私・・・』
自嘲するように、更に小さな声でタツキは呟いた。そしてゆっくりと首をひねらせて横で気を失っているリザードンに目を向けた。 そして彼を見つめながら呼びかけた。
『大丈夫・・・私が・・・傍にいるから・・・』
勿論、それがトウヤの耳に届いていないことも、タツキは十分に理解していた。だけど、タツキは自分に出来ることはやろうと、 何度も何度もリザードンに呼びかけた。・・・だがやがてタツキの心と身体も、疲労が蝕んでいく。急速に襲ってくる眠気。 何とかこらえようとしたが、そう思ってもこらえられるものでもなかった。
やがてタツキはゆっくりと目を閉じて、意識を眠りに委ねた。今はただ、トウヤの無事とリヒトの身を案じながら、 静かに微笑むだけだった。やがて眠りから覚め、新たな時が動き出すその瞬間まで。
μの軌跡・幻編 第16話「別れ、そして誓い」 完
第17話に続く