μの軌跡・幻編 第15話「血を分かつ君」
【人間→ポケモン】
記憶を取り戻してあげたいって思っていた。君が自分の記憶を失っていると知った、あの時から。 君がそれをあまり望んでいないことも薄々感ずいていたけど、それでも君が記憶を取り戻すことが君のためだって、ずっと信じていた。 ずっと願っていた。
まさか、こんな事実が待ち受けているなんて知る由もなく。
私は人間の姿を取り戻した。リヒトは記憶を取り戻した。これで、全て願いどおり。・・・そのはずだった・・・だけど。
「・・・リヒトが・・・リヒト・・・?待って、どうして・・・!?」
『わかんないよ!・・・タツキは誰なんだよ・・・。姉さんは、僕の誰なんだよ!?』
「ッ・・・リヒト・・・!?」
タツキは知らず知らずのうちに、さっきビャクヤがかけてくれた上着の裾をぎゅっと握り締めていた。・・・違っていた。 理想通りの展開を迎えることが出来たはずなのに、待っていた結果は彼女の想像とは全く違っていた。心が痛い。リヒトの切なげな視線が痛い。・ ・・死んだはずの弟が生きていて、それが目の前にいる。こんなに幸せなことは無いはずなのに。
『・・・どういうことだ・・・ビャクヤ!お前は・・・何をしにここに来たんだ!?』
横で一部始終を見ていたリザードン・・・トウヤは、不敵な笑みを浮かべる弟、ビャクヤに向かって、 その牙を光らせながら雄々しい叫び声で問いかけた。
「まぁ、色々と目的は有ったんだけどね・・・例えば、リヒト・・・彼の記憶が戻るかどうか、とかね」
『・・・知っていたのか、リヒトの・・・ピカチュウの正体を!?』
「あぁ、それを承知の上で2人を・・・あ、2匹って言うべきか・・・兎も角、この島に連れてきたんだし」
『お前・・・何を企んでいる!こいつ等の・・・運命を弄んで!』
リザードンが、大きく口を開けながら叫び、ビャクヤを睨みつけたが、ビャクヤは冷たい微笑のままタツキたちの方を振り向いた。
「運命を弄んでるわけじゃないさ。僕だって好きでこんなことしてるわけじゃない。・・・だけど、タツヒトの頼みじゃ断れないしね」
「・・・え?」
『タツ・・・ヒト・・・?』
ビャクヤが呟いた男の名に、タツキとリヒトは反応してビャクヤのほうを振り向いた。・・・反応しないわけがなかった。
「父親の名を、聞けば・・・ね」
「父さんの頼みって・・・どういうこと・・・!?」
「3ヶ月ほど前に頼まれたのさ。クサカ タツヒトにね。・・・”子どもたちを守って欲しい。・・・殺される、俺の代わりに”」
「殺さ・・・、ちょっと待って!・・・父さんは・・・父さんは、自殺・・・だったんじゃ・・・!?」
「あぁ・・・そうか、君はそう聞かされていたのか」
ビャクヤははっとした表情を浮かべる。そしてゆっくりとタツキと目線を合わせるように身をかがめた。
「君の父親は・・・クサカタツヒトは、自殺なんかじゃない。・・・クサカ リヒトと、クサカ キリ・・・ 君の弟と母親が死んだのも交通事故じゃない。・・・そして、あのフェリーの事故も・・・ね」
「・・・何を・・・言ってるの・・・!?」
「計画だったんだ。・・・みんな殺されたんだよ・・・全ては、クサカ タツヒトの血縁者を葬るために」
「ッ・・・!」
言葉が、出なかった。タツキは、ビャクヤが語る真実に何を応えればいいか、どう応えればいいか、分からなかった。そして、 言葉にならなかった感情は彼女の目頭に熱くこみ上げてきた。タツキは、空を見上げて、それをぐっとこらえ、ゆっくりと唾を飲み込んだ。 そして、ようやくタツキは喉から言葉を絞り出した。
「・・・はは・・・そう、だったんだ・・・」
タツキの口からは、乾いた笑いもこぼれてきた。今の自分の感情をどう表現していいか分からず・・・ 或いは感情と言うレベルを超えた何かだったのかもしれない。
「ずっと・・・不思議だったんだ・・・」
「・・・?」
「・・・私は、皆がいなくなったあの時・・・まるで哀しくなんてなかった。涙一つ流さなかった。ただ、 家族がいなくなった虚無感と喪失感だけがね、私を襲ったの・・・暗くて、冷たくて、なのに心は痛くなかった。・・・ むしろ自分でも怖いほど落ち着いていた」
タツキは、未だ天を見つめながら静かに語り続ける。
「でも・・・それが、今分かったの。どうして哀しくなかったか。どうして・・・涙が出なかったのか」
「・・・どうしてだい?」
「・・・実感が、無かったの。・・・というより・・・うん、私、気付いてたんだ。認めたくなかっただけで・・・」
タツキは、この2ヶ月の事を思い出す。家族が死んだ瞬間、タツキはそのどれにも立ち会っていない。気付けば、家族がいなくなっていた。 そういうことばかりだった。そして、どうして家族が死んだのか、周りから聞かされただけだった。弟と母親が交通事故で亡くなったことも、 父親が自殺したことも。
「気付いてたんだ・・・多分、直感的に・・・皆が・・・いなくなった、その理由に・・・現実性が無いってことを・・・だから、 実感が無かった・・・だから、きっと・・・何処かで期待していたんだ。・・・皆は・・・まだ、どこかで・・・って・・・」
「・・・クサカ タツヒトは、聡明で、頭の回転が早く、鋭い人だったよ。・・・君に、その血は確実に受け継がれているみたいだね。・・ ・だったら、分かるだろう?」
「・・・うん・・・分かる・・・ビャクヤ、貴方の・・・言葉に、嘘が無いこと・・・私の・・・家族、がっ・・・!」
こみ上げたタツキの感情は、彼女の頬をつたって流れ落ちていった。ずっと、こみ上げてこなかった悲しみの感情。 それは家族を失った悲しみではない。・・・家族にもう会えないという、悲しみだった。今まで感じていた喪失感も虚無感も、家族が” いなくなった”ことが原因であり、タツキは何処かで家族が”死んだこと”を認めていなかったのだ。・・・しかし、 今ビャクヤから語られた真実、その言葉の重み、それがタツキに欠けていた”家族との別れの覚悟”を奮い立たせ、自覚させたのだ。本当に、 家族はもう、いないのだと。
「っ・・・ぁぁぅ・・・ああぁぁっ・・・!」
言葉にならない声と、涙を宙に散らしながら、タツキはその場に崩れ去った。長い髪が彼女の横顔を覆い隠したから、 他の誰にもその悲痛な表情は見えなかったが、しかしその声が、その姿が、彼女が背負った過去と未来の重さを物語っていた。張り詰めていた、 何かが音をたてて切れた。それをビャクヤは、優しげな表情で見つめながら呟いた。
「だけど、君は生きていた。リヒトもね。・・・君たちを守り、救い出し、真実を伝える。・・・ここまでが、 タツヒトに言われていた僕の仕事。・・・そしてここからは僕の・・・僕自身の、目的のためだ」
ビャクヤはそういうと、素早くタツキとリヒトの間に割って入り、リヒトのほうに向かいながら彼に声をかけた。
「クサカ リヒト。・・・僕がここに来た本当の理由は、君を連れて行くことだ」
『僕・・・を・・・!?』
『ビャクヤァ!お前・・・!』
「・・・トウヤ、君でも気付けるはずだ・・・気付いているはずだ。クサカ リヒトがピカチュウであること・・・その矛盾に」
『・・・』
トウヤは、聞こうとしていたことをビャクヤに逆に切り返されて、つい言葉に詰まってしまった。・・・そう、 リヒトがタツキの弟であること、つまり人間であると分かった瞬間から、ずっと違和感を感じていたのだ。 それはタツキも同じことを考えていたのだ。
「・・・リヒトは・・・”私達”とは違う・・・」
『タツキ・・・』
うな垂れながら、涙をまだこぼしながら、タツキは小さく呟いた。それをトウヤは、そのリザードンの鋭い眼光には似合わない、 どこか切なげな瞳で見つめていた。
「私達と・・・トウヤが・・・初めて会った時・・・トウヤは、ハクリューの姿だった私を、アルファだと・・・人間だと見破った。・・・ うん・・・そう、トウヤが気付けたのは”私だけ”だった・・・」
『・・・リヒトからは・・・”アルファ”の気配を感じなかった・・・』
「二人とも、物分りが良くて助かるよ」
タツキとトウヤに背を向けたまま、ビャクヤはそう応えた。
「そう、クサカ リヒトはアルファじゃない。他の何かで、ポケモンになってしまったんだ」
「・・・アルファは・・・ポケモンに変身する人間・・・でも、ポケモンに変身する人間が、アルファとは限らない・・・」
『その未知なる何か・・・それが、お前の目的と言うことか、ビャクヤ』
「クサカ リヒトには、人間にもポケモンにも、そしてアルファにも無い”可能性”がある。・・・クサカ リヒトを調べれば、 クサカタツヒトが守ろうとしたものが・・・”家族”だったのか、それとも”可能性”だったのか・・・それが分かるはず」
『・・・お前が、お前なりの信念を持っていることは分かった』
トウヤは、タツキから視線を上げて再びビャクヤのほうに目を向けた。その背中は、自分と血を分けた弟とは思えないほど、遠く、 小さく見えた。トウヤは、ぐっと拳を握り、小さく翼をうごかした。
『そして・・・やっぱり俺とお前が相反するってこともなぁ!』
叫び声を挙げると共に、大きく一つ翼をはためかせて、少しだけ宙に浮くとすぐさまビャクヤに向かって飛びかかっていった。それは、 さっきの光景をプレイバックしているかのようだった。再び、ビャクヤは大きく手を広げて、 襲い掛かってきたリザードンの拳をその手で受け止めた。
「トウヤ・・・僕達は、やっぱり血を分けた双子なんだ・・・僕も、同じことを考えてたよ!」
トウヤの力に耐えながらそう叫んだビャクヤの表情は、どこか楽しんでいるようにも見えた。
『俺は・・・むしろ呪いたいほどだ・・・!お前と同じ血を・・・分けているなどっ!』
「それもまた、お互い様さ!・・・”神の血”を継ぎながら、”神の力”が授けられなかった・・・君の存在は・・・不自然なんだ!」
『望んで、力を授からなかったわけじゃない!』
「そう、だから、問題なんだよ!」
ビャクヤは、その腕の細さからは想像出来ないほどの、強い力でリザードンの拳を払い除けた。・・・そしてそれと同時に、 ビャクヤの身体を徐々に白い光が覆っていく。・・・そう、タツキや、トウヤが変身する時に見せるのと同じ光だった。
「君は、いてはいけない存在なんだ。・・・君に流れる神の血が・・・存在してはならないものなんだよ!」
ビャクヤの叫びと共に、彼を覆う光も強くなっていく。トウヤはそのことに気付き、意識してビャクヤとの距離を取った。・・・ それを見れば、トウヤでなくても・・・タツキでも分かる。その光は・・・変身の合図。ビャクヤが変身しようとしているのだ。
「・・・そう、神の血・・・”海の神”の力で!僕は・・・僕はァッ!」
ビャクヤは大きく手を広げながら上体を反らす。あふれ出す力を、解き放つかのように・・・ビャクヤは大きく口を開け、一つ吼えた。
「ァアアアアァァァッ!」
ビャクヤの周りに、静かで、しかし力強い風が渦を巻く。・・・そしてその風に包まれながら、 彼の着ていた服が微かな音を立てて破れ始めた。勿論、風が破いたわけではない。ビャクヤの身体の変化に、服が耐えられなくなったのだ。・・・ そう、彼の身体は、大きくなっていた。何よりもそれが良く分かるのが、腕だった。彼の細い腕が見る間に大きく肥大し、 その色も健康的な肌の色から、白く変わっていく。まるで、砂浜に押し寄せる波が白く泡立つかのように。指の一つ一つが、 元の腕ほどの太さまで大きくなり、腕全体がやや平たくなって翼のようになる。足も一回り大きくなり、おなかの周りは他とは違う、 薄い紺色の皮膚が覆い、そのおなかはスマートな彼からは想像出来ないぐらい大きくなっていたが、 同時にどこかひ弱さも感じさせた元々の姿とはうって変わって、力強ささえ感じた。
「・・・変わっていく・・・白く・・・大きなポケモン・・・!」
タツキは、ビャクヤの変貌をその目に焼き付けながら、記憶はあの日のものを辿っていた。・・・そう、フェリーの上でポケモンに襲われ、 フェリーから落ちてしまったあの時、彼女を助けたのは白いポケモンだった。そして・・・今まさに、 目の前でビャクヤがそのポケモンへと変貌を遂げようとしているのだ。
「クゥ・・・!」
ビャクヤは、大きく変化したその腕を大きく広げながら、再び上体を大きく反らす。すると、お尻の辺りの肉が盛り上がり、 徐々に長くなっていくと、それは長い尻尾へと変化した。先のほうには、紺色の突起も伸びている。それと同時に、 まさに尻尾と同じように彼の首も長く伸びていく。・・・まるで、トウヤがリザードンになるかのように。そしてトウヤの顔もまた、 大きく変化していた。顔の皮膚も白く変色し、鼻先と上唇は一つとなって前へと突き出し、口は大きく裂ける。 目の周りには紺色の皮膚が目を守るように突起した。更に背中からもより大きい紺色の薄い突起が、恐竜の背びれのように突き出していた。
「・・・グウォォォォ!」
ビャクヤ・・・いや、彼が変化した白いポケモンは、その身を大きく広げて力強くを雄叫びをあげた。力強きその声は、 ビリビリと空気を振るわせる。聞く者の耳が、肺が、震えで痺れを覚えるほどに。タツキは、 ビャクヤから受け取った上着をぎゅっと握り締めながら、彼の姿を目に焼き付けた。・・・間違いない。間違えるはずが無い。 トウヤと出会ってから感じていたあの面影。自分の命を、すくい上げてくれた、あのポケモン。それが今目の前にいるのだ。
『・・・ルギア・・・気高く、誇り高き、”海の神”・・・』
「ッ・・・君は・・・?」
ふと、タツキの横に一匹のポケモンが躍り出て、ビャクヤのことを真剣な表情で見つめながら小さく呟いた。・・・メスのロコンだ。 確かさっき、リヒトと共にここへやってきた・・・。
『・・・私はカレン。・・・貴方にとってのパートナーがリヒトなら・・・ビャクヤにとってのそれが、私』
「カレン・・・?・・・ビャクヤの・・・パートナー・・・彼の、仲間ってこと・・・?」
『それ以外の意味に、聞こえたかしら?』
ロコンの声は、どこか幼さと大人っぽさを併せ持っていて不思議な感じだった。タツキはそのことと・・・ カレンと言う名前に少し気が引っ掛かったが、すぐにその意識をビャクヤが変身した白いポケモン・・・カレンがルギアと呼んだ、 そのポケモンへと戻す。・・・相対する、2匹のポケモン。白とオレンジ。人間の姿でも、ポケモンの姿でも、象徴する色に変わりは無かった。 そしてポケモンの姿もまた何処か、互いに似ていた。首の長い、ドラゴンによく似たポケモン同士。
『・・・ビャクヤ・・・ルギア・・・相変わらず、癇に障る名前だ!』
先に吼えたのは、リザードンのほうだった。鋭いキバをむき出しにして、長い首を引きちぎれんばかりに伸ばし、ルギアを威嚇する。
『そうだ、僕は・・・海の神、ルギア。・・・そして・・・神は僕一人で十分。まして・・・神の姿になれない神など、 存在しちゃいけない!』
ルギアもまた、応えるように高らかと声を上げた。2匹の鋭い眼光が、互いの姿を捉えている。
『・・・俺は・・・俺の力で生きる・・・神の呪縛を、解き放つ!』
『・・・僕は・・・神の力を守る・・・血の宿命を、ここで断つ!』
相容れない考え。相容れない言葉。相容れない・・・兄弟。・・・つまりは兄弟であるがゆえに、相手の心が分かるがゆえに、 分かり合えない。そういう矛盾だった。2匹は向かい合いながら、互いのタイミングを計る。動き出す瞬間・・・攻撃をする瞬間を、 探り合っていた。
「グウォォォ!」
「ガァァァゥ!」
そしてほぼ同時だろうか、2匹の猛々しいポケモンの鳴き声があたりに響くと、ルギアとリザードンは瞬時に浮かび上がり、 互いに低空飛行で相手に近づき、身体をぶつけ合った。当然、反動でお互いバランスを乱しながらしばらく宙をきりもみしていたが、 やがて2匹とも高度を上げると、今度は空中で戦いが始まった。
「・・・おかしい・・・おかしいよ、こんなの・・・!」
『・・・タツキ・・・?』
互いに技を繰り出しあう2匹のポケモンを見ながら、タツキは小さく呟いた。それに気付いたリヒトは、 それまでタツキとの視界を覆っていたビャクヤがいなくなったことで、はっきりと改めて確認できる、人間の姿のタツキを見つめながら、 小さな声で問いかけた。・・・何度見ても同じだった。そこにいる少女の姿は、リヒトの記憶の中で”姉さん”という敬称に置き換わってしまう。
「2人は・・・兄弟なんでしょ・・・!?・・・仲が良くないと思ったけど・・・敵意を、あんなにむき出しにして・・・あれじゃ、 まるで・・・!」
『まるで・・・殺しあい・・・みたいね』
タツキの言葉に割り込んだのは、カレンだった。そのロコンの愛らしい表情とは裏腹な、冷めた瞳で空の戦いを見つめながら、 タツキにこう話を続けた。
『・・・仕方がないのかもしれないわ。トウヤは”海の神”の血を引いているはずなのに、彼が変身するのは・・・海に嫌われたポケモン・ ・・火の力をもつポケモン・・・彼は、神に見放されたのよ』
「そんなの・・・理由になっていない・・・!」
『理由など、必要ないの。・・・正しくないものは、正しいものに修正される。・・・存在してはならないものは、 正しく存在しないようにする。ただそれだけ・・・兄弟だからとか、家族だからとか・・・それは言い訳』
「修正?正しいもの?・・・存在しては・・・ならないもの?・・・ふざけないで!」
タツキはきっとカレンを睨みつけ、上着を握り締めている手とは逆の手を、大きく振り上げ、ロコンの頬目掛けて力強く振り下ろした。 カレンは・・・ロコンの目には、しっかりとそれが見えていたはずだったが、カレンは甘んじてそれをそのまま受けた。ロコンの小さな顔に、 パチンという小さな音と、確かな痛みが走った。
「・・・命は・・・そんな軽いものじゃない・・・儚くて・・・脆いから・・・だから、大切にしなくちゃいけないものなの!」
『あなたは・・・命の重さを知ってるのね・・・羨ましい』
「・・・私の・・・痛みは、君には理解出来ない・・・!」
『そう・・・他人の痛みを理解することなんて出来ない。誰にも・・・ビャクヤも、トウヤも』
「ッ・・・!」
タツキは、カレンの言葉に、一瞬言葉が詰まった。・・・カレンの言葉に気付かされたのだ。トウヤも、ビャクヤも・・・きっと、 このカレンも、目には見えない傷を、自分と同じように抱えていることを。痛みにこらえながら、その痛みを理解してもらえない不安感と、 だからこそそれを隠すために、大きな意思を目の前に掲げて、悟られないようにしていることを。そして、余計にすれ違う。
「・・・でも・・・2人は兄弟なのに・・・!」
『兄弟だから・・・何?』
「・・・リヒト・・・?」
『血が繋がっているから、全てを受け入れられるわけじゃない。・・・血の繋がりが・・・煩わしい時だってある・・・』
ピカチュウの表情は、僅かに瞳を潤ませて、唇を小さく震わせながら、下を見つめていた。 それは今までタツキが見たこと無いリヒトの表情だった。ピカチュウとしても、人間としても。
『・・・タツキ・・・タツキは、気付いているよね?僕が・・・ううん、”ピカチュウのリヒト”が、 タツキにどういう感情を抱いていたのか』
「・・・リヒト・・・私は・・・」
『それが急に、自分の記憶が甦って・・・自分が人間で、タツキが姉さんで、自分は一度誰かに殺されていて・・・ 自分を取り戻したはずなのに、自分が誰なのか余計に分からなくなって・・・自分の感情さえ、存在さえ信じられなくなって!』
「でも、リヒトはそこにいるよ!・・・私の目の前に、確かに”リヒト”はいるんだよ・・・!」
『だったら受け入れてくれるのか!?”僕”の感情を、怒りを、戸惑いを・・・何もかも!』
「・・・それは・・・!」
『・・・姉弟だから・・・血が繋がっていると分かってしまったから・・・僕はもう、”リヒト”ではいられない・・・ダメなんだよ!・・ ・一つになれないんだ・・・心が・・・僕の中で・・・!』
リヒトは、両手それぞれで頭と胸を押さえて、ピカチュウの短い毛をかきむしった。どうにも出来ない、もどかしさ。 リヒトの中に2人のリヒトが存在している。・・・本来なら一つになるはずだった心が、2人のリヒトの間に生まれた・・・ タツキとの関係の違い・・・更に言えば”タツキに対する感情の違い”が、彼の中で微妙な食い違いを生んでいた。・・・リヒトの場合、 彼自身の中で既に、分かり合えない2人のリヒトがいる状態なのだ。
「リヒト・・・それでもリヒトは・・・私の弟なんだよ・・・!」
『・・・それが・・・タツキの答えか』
ようやく2人は、互いの目を見合った。・・・見ることが出来たのはほんの1秒ぐらいだったが。・・・互いに辛かったのかもしれない。 目を見れば動揺を悟られてしまうし、また、相手の目を見ても相手の動揺に気付いてしまう。それは、辛いことなのだ。
そして後聞こえるのは、2匹のポケモンが上空で戦う音だけだった。兄弟であるはずの2匹のポケモンが、互いを傷つけあうたびに、 タツキの心もまた、何故か痛かった。・・・それはある種の胸騒ぎだったのかもしれない。悲しみが、憎しみがこの島を覆っていく今・・・ その胸騒ぎは、タツキにとっての決断の時を告げる、確かなものだったのかもしれない。
μの軌跡・幻編 第15話「血を分かつ君」 完
第16話に続く