μの軌跡・幻編 第14話「光とともに」
【人間→ポケモン】
『ハァ・・・』
小さな洞穴の中で、ピカチュウの小さなため息の音がかすかに響いた。洞穴の一番奥でピカチュウ・・・リヒトは、丸くなりながら、 何処を見るでなくぼうっとしていた。・・・昨日から、どうも頭の中がモヤモヤしている。昨日海で聞こえた、あの不思議な声。 あれを聞いてから・・・どうも、気分がぱっとしない。
”イヤだ・・・違う、私は・・・!”
今も耳に残っている、あの声。記憶に無いはずの声なのに・・・そもそも聞こえるはず無い声なのに、確かに頭の中で響いたあの声。 自分の奥底を揺るがされるような、奇妙な気分だった。それに、思い出そうとすると、何かが自分の内側からあふれ出してきて、 それが処理できなくて気持ちが悪くなってくる。
『何なんだよ・・・一体・・・』
リヒトは独り言を呟きながら、ごろんと寝返りを打って仰向けになり、何も無い洞穴の天井を見つめた。そして、 内から上がってくる奇妙な感覚を抑えるように、自分の小さな前足で口元を押さえた。今まで感じたことの無い、不安感が押し寄せてくる。
(僕は・・・何を、海の向こうに”感じた”んだろう・・・)
確かに、あの声も、奇妙な感覚も、海の向こうから感じたものだった。・・・やはり、 海の向こう側にはリヒトの過去に関する何かが有るのだろうか。
”リヒトの記憶のこととかね。見つけてあげたいな、って思って”
そんなことを考えていた時、不意に昨日のタツキの言葉が頭の中で響いた。・・・そういえば最近、タツキと一緒にいることが、 少しだけ減っていることに改めて気付いた。トウヤが来て、タツキが人間に戻れることを知って、 タツキはしばらくトウヤと一緒にいることが多かった。・・・だからなのだろうか。ラズに”あんなこと”を言われて、 ドキッとしてしまったのは。
”1匹のメスとしてきちんと意識してるってことか?”
リヒトはオスで、タツキはメス。・・・確かにタツキはかわいいし、カッコイイし、何だかんだで優しい心の持ち主だし、 ハクリューだからスタイルもいい。まだ若いリヒトからしても、タツキは魅力的な女性なのだ。でも、タツキはハクリューで、 リヒトはピカチュウだ。種族が違うし・・・第一、タツキは人間だ。今はポケモンの姿をしているだけで、元々は人間だった。人間とポケモン・・ ・恋愛が成立するはずが無い。
『・・・そうだ・・・悩むことが・・・馬鹿げてるよ・・・』
そう自分に言い聞かせるが・・・胸に絡みつく、モヤモヤとした感じは消えてなくならない。こんな時、ありきたりなストーリーなら、” 自分に素直に”なんてきれい事を言われるんだろうけど・・・素直になればなるだけ、傷つくのはリヒトなのだ。叶わぬ夢なら、願わない。 それが自然なこと。それでいいはずなのに。
(・・・頭、冷やした方がいいかな・・・)
リヒトは、すっと2本足で立ち上がり、頭に前足を当てながら、ゆっくりと洞穴の外へと向かっていく。出口に近づくにつれて、 気持ちのいい風がリヒトを出迎えてくれた。リヒトは鼻をひくつかせながら、空気を肺一杯に吸い込んだ。胸に引っ掛かっていた何かが、 すっと消えていく気がした。
『・・・うん、後は冷たい水で顔でも洗って・・・』
リヒトは洞窟の外に出ると、まぶしい太陽を見上げながらうぅんと一つ、背伸びをした。そして軽く首を鳴らし、 今度は4足を地面につけて、ドクの診療所に向かうために坂を駆け下りようとした・・・まさにその瞬間だった。突然、 何かと何かがぶつかったようなインパクト音が、遠くから響き渡ってきたのだ。・・・同時に張り詰める、島の空気。
『な・・・何だよ!?一体!』
リヒトはついたばかりの前足をまたすっと上げて、後足で立ち上がると、耳と鼻を小さく動かしながら辺りの様子を確認した。 そしてインパクト音が聞こえてきた方に目を向けて、意識を集中する。・・・生憎、 角度的にインパクト音がした方の様子を見ることは出来なかったが・・・どうも何匹かのポケモンがいる気配がする。
『・・・トウヤ・・・それに・・・タツキ・・・!?』
リヒトは気配を感じたポケモンの名前を呟いた。・・・幾つかのポケモンに混じって、記憶の確かな気配を感じ取ることが出来る。・・・ しかし、そこから感じる気配が随分と張り詰めているし・・・感じ慣れない、だけととても強くて大きい気配を感じる。・・・また、 3日前のように誰かが襲ってきたのだろうか。・・・だとしたら、自分も行かなくちゃいけない。 リヒトは慌てて気配のするほうに向かって走り出そうとした。
だがその時、彼の目の前に突然、何かの影が飛び出してきた。リヒトはその影にぶつからないようにとっさに足を止めて、 完全に自分の身体が止まったことを確認すると目線を上げてその影の存在を確認したが、それとほぼ同時に、 目の前の影の方が先に話し掛けて来た。
『迎えに来たつもりだったけど・・・その必要は無かったみたいね』
『えっ・・・ロコン・・・?』
リヒトは、目に見えたポケモンの名をそのまま呟いた。・・・そう、リヒトの目の前に飛び出してきたその影は、 赤茶色の柔らかな毛を生やし、お尻からはくるんと丸まったフサフサの尻尾が6本生えた、狐によく似た可愛らしいポケモン、ロコンだった。 そのロコンは、リヒトの姿を確認して少し嬉しそうな笑みを浮かべながら、その小さな口を動かした。
『ふふ・・・随分ピカチュウの姿が様になってるわね』
『・・・え・・・何を言ってるんだ・・・僕は元々・・・!』
『記憶も無いくせに、”元々”なんて言えるの?』
『っ!・・・何で記憶のことを・・・!?』
ロコンは、目の前のピカチュウがうろたえる様子を見て、再び笑みを浮かべながら、ゆっくりとピカチュウの傍へと歩み寄った。
『多分・・・私は、貴方以上に貴方のことを知っているはずよ』
『・・・君は、記憶を失う前の僕を・・・知っているのか・・・!?』
『えぇ。・・・そして、貴方にそれを思い出させるために、私はここに来たの』
『僕の・・・記憶を取り戻すため・・・!?』
突然現れたロコンの言葉に、リヒトは動揺を隠さなかった。・・・失っている自分の記憶。それを取り戻すこと。・・・ 大切なことなのかもしれない。しかし、リヒトは記憶が無くても困ったことは無かった。今まで普通に生活してくることが出来たのだ。 それなのに。
『どうして・・・』
『・・・え?』
『どうして、みんな僕の記憶を取り戻させようとするんだよ・・・僕は、僕だ!・・・僕は・・・記憶なんて・・・必要ない・・・!』
『・・・そう思うんだったら、それでも構わないわ。・・・けど』
少し困ったような表情を浮かべながらも、ロコンは冷静な口調のまま、急にリヒトとは反対の方を向いた。・・・そう、 リヒトが向かおうとした方に。
『・・・もし貴方が記憶を取り戻したくないと願うなら・・・この先には行かないことね』
『どういう・・・ことだよ・・・!?』
『行けばきっと・・・貴方は記憶を思い出してしまうから』
『ッ!・・・君のほかにもまだ、この島にやってきてるのか・・・?』
『えぇ。・・・そして、彼は多分・・・貴方の大切な仲間たちを襲っているでしょうね』
『なっ・・・!?』
ピカチュウの驚く表情を、ロコンは後ろ向きのまま横目をすっと向けて、そして少し意地悪そうな笑みを浮かべた。 可愛らしい姿とは裏腹に、ロコンは言葉を巧に扱って、ピカチュウを追い詰める。
『簡単な話。貴方が記憶を取り戻したくないなら、仲間を諦めること。貴方が仲間を助けたいなら、記憶を取り戻すこと。・・・ 天秤にかけるだけ。・・・あぁ、もっとも貴方が行っても、助けにはならないかもしれないけど』
『・・・僕は・・・!』
リヒトは、耳と尻尾を下げて苦悶の表情を浮かべながら考え込み始めた。・・・そう、ピカチュウの力は非力だ。トウヤやラズはおろか、 元人間であるはずのタツキよりも力では劣る。リヒトが行っても助けにならないかもしれないし、もしその時に記憶を取り戻してしまったら・・・ それこそ、彼等を助けられるどころじゃないかもしれない。だから、あえて行く必要は無い。・・・そう頭では理解できているのに。
『・・・僕は、タツキを見捨てたりしない!』
気付けばリヒトは、ロコンの横を走り抜けて気配のする方へと走り始めていた。ロコンはそれを見送ると、 少し間を置いてからゆっくりと彼の後を追いかけ始めた。
『・・・そう、貴方は”タツキ”を見捨てることは出来ないのよ・・・”リヒト”』
目の前を走るピカチュウに聞こえないような小さな声で、ロコンはそう呟いた。その表情は、さっきのまま意地悪気な表情だったが、 その瞳だけは、どこか寂しげだった。そんな後ろのロコンのことなど気にかけることも無く、リヒトは弾丸の如き勢いで坂を駆け下りていった。 自分には何も出来ないかもしれない。記憶を取り戻してしまうかもしれない。・・・それでも、タツキのことを、 皆のことを放っておくことなんて出来なかった。ただ、みんなと一緒にいたい。それだけを願っていた。
『・・・どういうことだ・・・ビャクヤが・・・タツキを助けたって・・・?』
張り詰める空気の中、リザードンの姿のトウヤは、目の前の双子の弟、ビャクヤに対して警戒をし、意識を集中させながらも、 自分の横に居るハクリューのタツキに対して問いかけた。
『・・・2週間ぐらい前・・・いや、そんなには経っていないのかな・・・私は、フェリーでムサシからオワリに向かっていたの・・・ だけど、そのフェリーが突然、ポケモンに襲われたの』
『そのニュースなら・・・確かに、テレビで見たな』
『そして、私はその騒動の中で海に放り出された。・・・ポケモンに襲われたせいで、私は身体が動かなくって、あぁ、 私は死ぬんだなって・・・そう思った』
そう語るハクリューの身体に力が入って、強張っているように見える。・・・死の恐怖が、今改めてタツキの中で甦って、 襲い掛かっているのだろう。その表情は何処か苦しげだった。
『・・・だけど、私は死ななかった。・・・助けられたのよ。白くて・・・大きなポケモンに』
『それが・・・ビャクヤだと・・・』
『みたい・・・ね。私もまだ、実感が湧かないけど・・・』
タツキは、一通り喋り終えると、ゆっくりと視線を上げて改めてビャクヤの姿を確認した。・・・やはり、その姿から感じる気配が、 あのときのポケモンと一致する。あの時タツキを助け出したポケモンはビャクヤで間違いないようだ。・・・しかし、 だとすれば何故ビャクヤはタツキを助けたりしたのか。何故、今目の前に現れたのか。タツキには分からない事だらけだった。
『・・・ビャクヤ、お前・・・どういうつもりだ』
タツキの疑問を察知したのか、トウヤはリザードンの声で低く唸り声を上げながら、ビャクヤに問いかけた。 ビャクヤはそれを黙って見ていたあと、アゴのところに手を当てて、少し考えた素振りを見せた後、じろっとタツキのほうを見て答えた。
「色々と事情があってね・・・何処から話せばいいか・・・何処まで話せばいいか」
『事情・・・?』
「そう、事情。・・・多分、トウヤがミュウツーを追っていたのと、近いかもね」
『お前・・・MT4を知っているのか!?』
「知ってるさ。多分、トウヤよりも僕のほうがこの件には首を突っ込んでいると思うよ。・・・何せ、 僕は直接ある人物から依頼を受けたからね」
トウヤはそう言って、何か言葉を続けようとしたが、不意に何かを感じ取ったような素振りであたりを見渡し始めた。 そして自分の後ろのほうから、2匹のポケモンの気配を感じ取ると、意味深な笑みを浮かべながら小さく呟いた。
「・・・どうやら、これで役者は揃ったみたいだ」
『役者・・・?』
それを聞いて、トウヤとタツキはビャクヤの後ろのほうに目を向けた。・・・そこには確かに、 2匹のポケモンが息を切らしてたたずんでいた。・・・一匹は良く見知っているピカチュウ。もう一匹は見知らぬロコンだった。
『リヒト!』
『・・・タツキ・・・』
遠く離れた相手に向かって、ハクリューとピカチュウはそれぞれ相手の名前を呼んだ。 その様子を見たビャクヤは少しハッとした様な表情を一瞬だけ浮かべ、すぐにまた元の表情に戻ると、 タツキのほうを見つめながら小さく呟き始めた。
「・・・なるほどね・・・偶然か、或いは・・・いずれにしても君はどこかで、”リヒト”を求めていたのかもしれないね」
『・・・何を言ってるの・・・!?』
ビャクヤの言葉に、タツキは目線をリヒトのほうから、すっとビャクヤのほうへと移した。そしてそれとほぼ同時に、 ビャクヤはタツキのほうへと歩み始めた。
「ところで、アルファにはいくつかの段階があるって、知ってるかい?」
『え?』
不意をつくように、ビャクヤが問いかけてきた。タツキは急な質問で戸惑って上手く答えが出てこなかった。 その間にもビャクヤはタツキに近づこうとする。それをかばうかのように、リザードンのトウヤがすっと腕を広げながら、 二人の間に割って入った。しかし、ビャクヤはそれに反応することなく、そのまま話を続けた。
「まず、アルファは何かのきっかけでポケモンに変身してしまう。そして、ポケモンとしての能力を高めることで、 人間とポケモンの姿を自由に行き来できるようになる。更に感覚が研ぎ澄まされてくると、相手がアルファなのか、アルファが何処にいるのか、 分かるようになってくる」
『・・・だからどうした』
近づいてくるビャクヤを睨みつけながら、トウヤは低く猛々しいリザードンの唸り声を上げた。だが、それもビャクヤは相手にしなかった。
『そんなことは、アルファの常識だ。・・・今更言われなくとも・・・』
「そしてもう一つ。もっとも高い能力を持つアルファには、もっと優れた能力が宿っている」
『何・・・?』
ビャクヤの言葉に、トウヤは一瞬だけ動揺を見せた。・・・そしてその瞬間を、ビャクヤが見逃すはずも無かった。 彼はその一瞬の隙をついて、人間とは思えない素早いスピードでトウヤの横を駆け抜けると、タツキのすぐ傍まで辿りついた。そしてすぐに彼は、 その手でタツキの身体に突然触れたのだ。
『な、何・・・!?』
『しまっ・・・タツキ!』
ビャクヤに遅れを取ったことに気付いたトウヤは慌てて後ろを振り返った。・・・だが、それをビャクヤは冷静に確認し、 何処か余裕さえ見せながら、小さく呟いた。
「・・・優れたアルファには・・・自分だけじゃない・・・自分以外のアルファの変身も、司ることが出来るんだ。・・・こんな風に」
『っ!?』
ビャクヤの言葉が、言い終わるか否か、タツキに触れるビャクヤの手から突然、蒼白い光が溢れ始めたのだ。その光を浴びた途端、 タツキは身体がしびれるような感覚に襲われて、身動きが取れなくなってしまった。そして力が抜けたように、その長い身体を地面に横たえた。
『ァッ・・・な、何・・・力が・・・!?』
『ビャクヤァ!・・・タツキに何をした!?』
「だから、人の話は聞きなって。言ったろう?”変身を司る”って」
『まさか・・・!?』
トウヤははっとして地面に横たわって苦しそうな表情を浮かべるハクリューのことを見た。・・・既に、ビャクヤの手は離れていたのに、 あの光はまだタツキの身体で光っており・・・それが徐々に大きく広がっていく。その光の大きさがある程度に達した瞬間、 その中のハクリューのシルエットが揺らめいた。
『タツキ・・・!?』
まだ遠く離れているリヒトは、タツキの苦しそうな姿を見て慌てて彼女の傍へと近寄ろうとした。・・・しかし、次の瞬間何故か、 リヒトはすぐに立ち止まってしまった。駆け寄って、すぐにでも彼女を助け出したいはずなのに、何故か身体が重たく感じる。・・・ 何か耳鳴りのようなものが、遠くから聞こえてくるような、頭の中で響くような、奇妙な感覚に襲われた。それは、 タツキを包み込む光が強くなればなるほど、比例して強くなっていく。
『なん・・・で・・・こんな時に・・・!?』
リヒトは、片方の前足を頭に当てながら、その間にうずくまってしまう。・・・何か、何かがリヒトの頭の中で蠢いている。 自分の身体が自分のものでないような、自分が自分でないような、言い知れない恐怖感。自分の中から、何かが浸食を始めている。
『クソッ・・・タツキ・・・!』
リヒトは、動けない自分を不甲斐なく感じながら、目の前で苦しんでいるタツキのほうを見上げた。・・・しかしそのシルエットは、 輝く光のせいでもう輪郭が辛うじて分かる程度で、それがハクリューだと判断するのは最早難しかった。・・・しかし、リヒトはその時気付いた。 そのシルエットが、ハクリューだとすぐに認識できなかった、別の理由に。
『・・・体が・・・縮んで・・・いや、短くなってる・・・!?』
ハクリューは細く長い身体を持つポケモンだ。その全長は頭から尻尾の先までで、平均で5m程度といわれている。タツキも、 大体それ位の大きさがあったはずなのに、今は明らかにそれより短くなっているのだ。・・・そこでリヒトはようやく思い出した。
タツキがアルファであること。
そしてその光は、トウヤが人間からリザードンに、或いはリザードンから人間に戻る時に見せるあの光と同質のものだと言うことを。・・・ だとすれば、今タツキの身に起きていると推測される出来事は、一つだった。
『人間・・・タツキが、人間に戻る・・・!?』
徐々に短くなっていくハクリューを見つめながら、ピカチュウは静かに呟いた。・・・タツキの人間の姿。自分と出会う前の、タツキの姿。 自分の知らない、タツキの本当の姿。・・・そのはずなのに、タツキが人間に戻ろうとしていることに気付いた途端、リヒトの中で蠢く何かは、 更に力強さを増して彼の心を襲う。
『ぅぅ・・・違う、僕は・・・僕は思い出したくなんか・・・ないんだ・・・僕は、ハクリューのタツキの傍で、ドクの傍で、 ラズ達仲間の傍で・・・傍に、いれれば、それで良いのに!・・・だから・・・僕の中から、出てくるなよぉ!』
『落ち着いて・・・”リヒト”』
苦悶の表情を浮かべ、何かを振り払うように大きな鳴き声を上げるピカチュウ。それを抑えるように、 それまで横でじっとしていたロコンが、彼に優しい口調で話し掛けて来た。
『拒んではだめ。押しつぶされてしまうわ。・・・辛いけど、認めて、楽になったほうが・・・』
『うるさいよ!僕の・・・今の僕のことを知らないのに!過去の僕を知ってるからって・・・馴れ馴れしくするなよ!』
『”リヒト”・・・!』
『大体・・・僕のことをリヒトって呼んでいいのは、タツキだけなんだ!・・・僕の過去を知っているなら、僕の過去の名前で・・・ 呼べば良いだろ!』
『違うの・・・違うのよ、”リヒト”!貴方は・・・!』
『うるさいよ!僕は!・・・僕は、たとえタツキが人間だとしても・・・僕の力が弱くても・・・僕はタツキを守る。・・・ タツキが人間に戻ったら、ポケモンの力を使えない・・・ポケモンの頑丈さも無い・・・僕が・・・僕が、守らなきゃいけないんだ!』
そう叫ぶと、ピカチュウはロコンを振り切るように、自由にならない自分の体に精一杯の力を込めて、 光に包まれているタツキの方へと再び駆け寄り始めた。
まず、タツキが人間に戻ったら、何か声をかけてあげよう。そして、いつもと変わらない笑顔で、人間の彼女を受け入れてあげよう。もし、 タツキを人間に戻したあの男が、タツキに何かしてきたら、身を挺して守ってあげよう。勇気と・・・愛を与えてくれた君を、僕が、全力で守る。 ・・・リヒトは心の中でそう決意しながら身体が短くなっていくタツキへと徐々に近づいていく。
だが、その間にもタツキの姿は大きく変わっていく。ある程度まで尻尾が短くなると、それまで長く直線的だった彼女の身体が、 丸みを帯び始める。そして、身体の横からすらっと長いものが伸び始める。・・・四肢だ。ハクリューには存在しない、 手足が彼女から生えてきた。額の角も消え、頭の上からはぶわっと長く柔らかな髪の毛が姿を現した。
『タツキーッ!』
リヒトが彼女のなを叫んだのと同じぐらいだった。彼女を包んでいた光が、ふぅっと彼女の身体に凝縮されて、 それがすぐにパァンと光の粒子になって飛び散った。・・・そしてその中から現れたのは・・・紛れも無い、一糸纏わぬ人間の少女だった。 傍にいたビャクヤは彼女の変化が終わったことを確認すると、すぐさま自分の着ていた上着を彼女にかぶせて、彼女の身体を隠した。
人間に戻ったタツキは、少しの間だけ微動だにせず膝を折ってうな垂れていたが、 やがて小さなうめき声を上げながら頭をゆっくりと上げる。
「ぅぅ・・・私・・・!?」
「・・・どうだい?久しぶりの人間の姿は?」
「・・・私・・・人間・・・戻ったの・・・!?」
タツキはビャクヤの言葉を聞いてようやく自分の身体に起きた出来事に気付いた。そして、慌てて自分の手を見る。・・・そう、 手が有るのだ。足もある。胸も、髪も、耳も、きちんと人間のものだ。そこにいたのは紛れもなく、人間だった。・・・人間の少女、 クサカタツキだった。
「戻ったんだ・・・戻れたんだ、私・・・!」
そのことにタツキの心は少しずつ高揚していく。・・・たった10日程度なのに、自分の身体が懐かしい。手が生えている感覚。 足が生えている感覚。・・・人間の身体はこういうものだったのかと、改めて感じていた。・・・だが、自分の身体を確かめている時に、 その視界にふと、一匹のピカチュウの姿が入ってきた。・・・リヒトは、 ぼぅっとした表情のまま2本の足で立ち尽くしながらタツキのことを見つめていた。・・・タツキの人間の姿を見て驚いているのだろうか。 タツキは目の前のリヒトに対して、ゆっくりと声をかけた。
「・・・リヒト、私だよ。タツキ。・・・私、人間に戻れたの。・・・わかるでしょ?」
未だ微動だにしないリヒトに対して、タツキはゆっくりと手を差し伸べようとした。・・・ここにいるのは、私。ハクリューの姿でも、 人間の姿でも、タツキであることに変わりが無いことを、リヒトにわかってほしかった。そうじゃないにしても、何か一言、言って欲しかった。・ ・・アルファであるタツキが、人間に戻ってもポケモンの言葉が分かるか確認したかったのだ。・・・するとようやく、ピカチュウは、 その口元を重そうに、ゆっくりと動かした。
『・・・さん・・・』
「えっ・・・何?・・・聞こえないよ、リヒト・・・」
ピカチュウの声があまりに小さくて、その意味を上手く聞き取れなかった。・・・けど、今のピカチュウの鳴き声が、 タツキにはきちんと人の言葉のように聞こえてはいる。どうやら、ポケモンの言葉を理解する能力はきちんと備わっているようだ。 タツキはリヒトの声が利きたくて、身を乗り出して彼に近づこうとする。そしてリヒトは、もう一度、今度は殺気よりももっと重そうに・・・ 何故か、つらそうな表情で口を動かした。・・・その表情と、その言葉は、きっとタツキの目に、耳にしっかりと焼きついただろう。
『・・・姉・・・さん・・・?』
「・・・ぇ・・・?」
リヒトに伸ばそうとしていたその手が途中で止まった。呼吸も、瞬きも、その瞬間出来なくなっていた。・・・今リヒトは何を言った? それは・・・自分に言った言葉なのか?・・・たった一言、なのにそれをタツキはすぐに処理できずにいた。
「ま・・・待って、何を言ってるの・・・だって、リヒトは、リヒト・・・は・・・!」
リヒトは、あの日交通事故で死んだはずなのに。
リヒトは、ピカチュウだから、自分の本当の弟なはずないのに。
その二つの言葉が、同時に口から出ようとしたが、上手く言葉にならなかった。二つのリヒトの影が頭の中で交錯し・・・重なり合う。・・ ・有りえるのか、そんなことが。・・・それとも、本当に・・・?タツキは頭の中で目の前の事実をしっかりと整理しようと必死だった。
だが、リヒトの今の言葉に驚いたのはタツキだけじゃなかった。・・・いやタツキ以上に驚いていただろう、言った本人のほうが。
『・・・僕は、何を・・・何を、言ってるんだ・・・!?』
リヒトは慌てて自分の口を前足で押さえようとする。・・・しかし、押さえようとした瞬間に視界に入った自分の、 ピカチュウの前足を見て、リヒトは言い知れない違和感を覚えたのだ。
何故、自分がピカチュウの姿なのか。
『・・・違う、そんなこと、疑問に思わなくていいんだよ・・・僕はピカチュウだ・・・ピカチュウのはずだろ!?』
「・・・リヒト・・・!?」
『タツキ・・・僕は、どうしちゃったんだ・・・変なんだよ!・・・タツキ、僕は・・・僕は誰なんだ!?何で・・・ 何で僕の中に知らない僕がいるんだ!?』
「リヒト!落ち着いて・・・リヒト・・・!」
『・・・何で・・・僕の中に・・・人間の姿の・・・タツキの・・・記憶があるんだよ・・・!?』
「ッ・・・リヒト・・・まさか、本当に・・・!?」
認めるのが怖かった。タツキにとっても、リヒトにとっても、その事実を事実として迎え入れるのが怖かった。・・・嬉しいはずなのだ。 死んだと思っていた弟がそこにいるならば。失っていた大切な記憶を取り戻せたのなら。本当は、嬉しいはずなのだ。・・・それなのに、 2人は怖くて仕方なかった。きっと・・・それを認めれば、同時に大切な何かを否定してしまうから。
ピカチュウとしての、リヒトの存在を。
だけど、認めなきゃいけない。何が真実なのか。めぐり合ってしまった、この運命を。
「・・・リヒトは・・・本当に、あの・・・本当のリヒト・・・なの・・・!?」
『・・・そうだ、僕は・・・リヒト・・・クサカ リヒト。・・・クサカ タツヒトとクサカ キリの長男で・・・タツキの・・・』
ピカチュウは、そこで一つ息と唾を飲み込んだ。前足が、少しだけ汗ばんでいた。・・・そして、前足をゆっくりと、ぎゅっと握り締めて、 言葉を続けた。
『タツキの・・・姉さんの、弟だ』
「リヒト・・・本当に・・・!」
哀しげで、寂しげな表情のピカチュウと、戸惑いと、嬉しさと・・・申し訳なさ気をはらんだ表情の人間の少女。面する1人と1匹は、 気付いてしまった事実の大きさに言葉を失ってしまった。傍にいたリザードンとグラエナも、驚きと戸惑いの表情を浮かべる。 そこから僅かに離れたところでロコンは、寂しげな表情を浮かべる。・・・ そこにいた誰もが知ってしまった事実に戸惑いか或いは悲しみを感じる中で、ただ一人・・・ビャクヤだけはその口元に笑みがこぼれていた。 そして、風の音だけがあたりを駆け抜けていった。
μの軌跡・幻編 第14話「光とともに」 完
第15話に続く
真実を知ってしまったリヒト・・・
この1話で話がかなり動きましたね
宮尾武利さんの小説にはもう脱帽です
次も楽しみにしてます^^
★宮尾レス
ゼル様、コメント有難う御座います。
μの軌跡幻編第1部も残すところあとわずかなので、そろそろクライマックスな展開になってきました。
果たしてこれからどうなるのか、第2部にどう繋がっていくのか、今から色々考えていますw