2007年09月03日

その愛が灰になる時

その愛が灰になる時

【人→獣】

ある夕刻の事だった。



「畜生め!また出やがった!」



不意に館の外から唸るような怒鳴り声が響いてきた。声の主は40代後半ぐらいの、身体の大きな男だった。男は持っていた猟銃を思いっきり地面に叩きつけ、何か鬱憤を晴らすかのように頭を掻き乱した。その横には30代半ばぐらいのやせ細った男と、 20代前半ぐらいの、若く凛々しい青年がいたが、皆一様に暗い表情を浮かべていた。その内、一番若い青年が大男の方を見上げながら静かに声をかけた。



「・・・怒りは分かるが、セバスティアーノ。落ち着くんだ」

「これが落ち着いていられる事かってんだ!・・・ハンス、てめぇはまだまだ若ぇから分からんだろうがな、女房を失うって事はだな・・・!」

「説教はよしなや、セバスティアーノ」



声を荒げるセバスティアーノの言葉を遮るように、横にいた細身の男がセバスティアーノの巨体を軽くぽんと叩き、言葉を挟んだ。そして、男は言葉を続けた。



「ハンスだって、女を失った男の気持ちが分からんほどの若造じゃあねぇ。・・・言う通りさ、こういう時ほど、冷静じゃあなきゃあいけねぇって奴さ」

「イワン・・・だが、あまりにも・・・やり切れん」



セバスティアーノは、下唇をかみ締めながら再び髪をかきむしった。丁度その時、館の中から一人の若い少女が飛び出してきた。



「どうしたのです、セバスティアーノ!大声なんか出して」

「おぉ、お嬢様・・・聞いて下せぇ。・・・実は鍛冶のジャックの女房が・・・例の奴に・・・!」

「まぁ・・・また出たのですか?」

「あぁ、今度もはっきり見た奴がいる。白くて、胸に傷のある、熊みてぇでけぇ狼・・・奴で間違いねぇ」



セバスティアーノは響くような低い声で、鋭い眼光を光らせてまた唸った。お嬢様と呼ばれた少女は、その話を聞いて、静かに胸の前で十字を切った。その様子を見た若いハンスはすっと彼女の横にたち、彼女の肩を抱くように腕を伸ばした。



「・・・大丈夫です、お嬢様。お嬢様は俺がお守りいたします」

「ハンス・・・ありがとう」



少女は、ハンスに身を委ねるようにぴったりと身体を寄せた。その様子を見て、2人の年配の男たちは肩をすくめながら、一つ小さいため息をした。しばらくすると、セバスティアーノの方がさっき地面に叩きつけた猟銃を拾いなおしながら小さく呟いた。



「・・・あの化物め・・・今度こそ・・・今度こそだ・・・!」



セバスティアーノの表情は、悔しさで溢れていた。それもそのはずだ。彼の妻と、兄もまた、例の狼にやられていたのである。



地方領主が納める、この街外れの小さな村で化物のような狼が現れるようになったのは、2ヶ月ほど前からだった。最初に襲われたのは、この村から街へものを売りに行こうとした村の商人が、村から程近い道中でだった。以降、被害は徐々に村に近づき、最近は村の中で被害が相次いだ。しかし、その被害は一つ特徴があった。



実は、これまで被害にあった人々の遺体が一切見つかっていないのである。現場に残されているのは、おびただしい量の血痕と、何故かその血痕のそばに広がっていた灰、それに布キレ同然にまで破れた被害者の着衣のみなのだ。そのことから、多くの者はあの狼が人一人を丸呑みにしてしまったと考えるようになった。いくら大きいとはいえ、人より一回り程度しか大きくない狼に、果たしてそんなことが出来るだろうかと疑問の声もあったが、相手は化物、常識では図れぬ存在だとして、皆一様にしてその理屈を納得していた。そしてますます狼を恐れるようになった。



だからこそ、誰かがあの化物を退治しなければならないのである。そうしてここにいる3人の男が狼を追っているのだが、狼はまるで彼等を煙に巻くかのように現れては逃げ、また現れては逃げを繰り返していた。



「・・・セバスティアーノ、何処へ行くんだい?」



ふと、細身のイワンが、セバスティアーノが猟銃を抱えたまま門の外へと出ようとしていたことに気付き、彼を呼び止めた。



「・・・やはり、すぐに捕らえんと腹の虫が治まりゃしねぇ・・・これ以上、被害を出すわけにゃいかねぇ!」



振り向きもせずにそう叫んだセバスティアーノはそのまま門の外へと出て行ってしまった。



「・・・ったく、血の気の多い奴ぁ、これだから困らぁ。ハンス、行くぞ。セバスティアーノ一人じゃあ、何を仕出かすか、分かったもんじゃあねぇ」

「あぁ、分かった。・・・すぐ追いつくから、先に出ててくれないか?」

「おう、すぐ来いよな?」



イワンは一つため息をつきながら、セバスティアーノを追いかけるように面倒そうに門のほうへと歩き始めた。やがて彼等2人の姿が見えなくなったことを確認すると、ハンスは自分の腕の中で心配そうな表情を浮かべる少女を見つめた。



「・・・お嬢様・・・」

「ハンス、2人きりのときは・・・名前で呼んでくださる?」

「失礼しました・・・マヘリア」



名前を呼ばれて、少女の表情は一瞬暗いものから明るい笑顔へと変わった。しかし、すぐにまた暗い表情に戻ると、細く不安の入り混じった声でハンスに問いかける。



「・・・その狼、人を食べてしまうのでしょう?・・・私、不安だわ。ハンス・・・貴方に危険な事はして欲しくない・・・」

「マヘリア、心配は嬉しいのですが・・・誰かが討たねば、被害は無くなりません。俺はまだ若いし、体力もあります。狼なんぞに負けはしませんよ」



ハンスはそっと彼女の手を握り、笑顔で微笑み返した。しかし、マヘリアの表情は暗いままだった。



「ハンス・・・でも、嫌な予感がするのです。・・・なんと言えばいいのかしら・・・胸騒ぎと言うか・・・虫の知らせと言うか・・・」

「マヘリア、心配しすぎです。・・・勿論、貴女のそんな想い、とても嬉しく思います。ありがとう」



ハンスは彼女の手を握ったまま、ゆっくりと彼女の前にひざまずき、取ったままのその手に、そっと口づけをした。突然の事にマヘリアは戸惑いながらも、うっすらと顔を赤らめた。ハンスはそのままゆっくりと再び立ち上がり、すっと一度髪を掻きあげながら、言葉を続けた。



「・・・ですが、俺のような若く強い者が、脅威に立ち向かわなければ、この領地の民はますますおびえてしまいます。まして、ここが私にとって・・・婚約者の父上が治める土地であれば、なおさら俺がやらねば、ならないのです」



ゆっくりとマヘリアから手を解きながら、その手を胸にあてハンスは高らかと語った。マヘリアは解かれたその両手をそっと胸の前で組み、頭を少し垂ながら、何処か弱弱しい口調で語りかけた。



「その思いはとても嬉しいの・・・ですが、だからこそ、ハンス。私は・・・心配なのです。だからハンス・・・無茶だけは、しないで。父が遠くに出ている今、この土地を守れるのは・・・未来の領主である、貴方なのですから」

「分かっています。マヘリア」



眉を寄せるマヘリアに対して、なおもハンスは笑顔を崩さなかった。その姿が何よりも優しい好意に思え、マヘリアの心は彼への思いで充たされていた。若くて強くて優しいハンス。村一番の美貌と財力と、純粋な心を持つマヘリアにはもう、彼意外と結ばれる答えなど無かった。



「・・・さて、外でセバスティアーノとイワンが待っています。・・・大丈夫、必ずいい結果を持って帰りますよ」



ハンスは彼女にそう言い背を向けると、門のほうへと歩き始めた。マヘリアは何かを語ろうとして、声を出しそうになったが、喉まで出かかったその言葉をぐっと押し戻した。何処か寂しげな表情を浮かべながら、彼の後姿を見送るマヘリアには、不敵な笑みを浮かべるハンスの表情は見えなかった。



しばらくハンスは、門で待っていたイワンと合流した。しかし、そこにセバスティアーノの姿は無かった。



「・・・奴は?」

「先行っちまったよ。せっかちな奴はこれだからいけねぇ」



イワンは細い腕を組みながら、呆れた表情でそう語った。だが、その表情はセバスティアーノに向けて作られたものではなかった。



「・・・もっとも、罪も無いいたいけな少女をたぶらかす小僧も、いい奴とは言えねぇがな」

「人聞きが悪いな。俺がわざわざ貰い手になってやったんだぞ」



不機嫌そうな表情で、ハンスはイワンに並ぶと、そのまま彼を通り過ぎて歩き始めた。その後を追いかけるようにイワンも歩き始める。



「俺と結ばれたい女は数多といるんだ。その中で俺と結ばれるなんて、むしろ誇って欲しいぐらいさ。金のためとはいえ、ガキと結婚してやるんだからな」

「ガキと言っても、歳なぞ5つしか違わんだろ」

「5つも違えば、大したものさ。俺がエービーシーとかやってたときに、生まれたんだぞ」



2人は納屋へと向かい、既に準備してあった猟銃を手にした。



「大体、民が苦しんでる中、たんまりと金を溜め込んで、のうのうと暮らしやがって。・・・俺みたいな人間が少しばかり良い思いしたって、バチは当たりゃしねぇさ」

「・・・ふん、狼なんかよりもお前のほうが、よっぽど獣だな」

「何とでも言っていいさ。俺はもっと高みへと行く男だからな」



猟銃の状態をチェックしながら、ハンスは答えた。その答えには、根拠の無い自信が満ちていた。



「俺がこの土地で、一番強く、一番賢い事は誰もが知っている事。無いのは金だけ。それさえ手に入り・・・そして狼も退治すれば・・・俺は最早、伝説さ」



猟銃を眺めるその表情は、既に勝利を確信し、酔いしれているものだった。



「そうかいそうかい。じゃあせいぜい、狼に食われて伝説になっちまわないように気をつけるこったな」



イワンは猟銃を背負い、一人先に納屋の外へと出た。ハンスは、もう一つ薄気味悪い笑みを浮かべると、イワンと同じように猟銃を背にして、納屋を後にした。



やがて2人は先に行っていたセバスティアーノと、森の入口付近で合流を果たした。



「てっきり先に行ったとばかり思ってたぞ」



イワンは、険しい表情を浮かべるセバスティアーノを見て、少し軽い口調で問いかけた。



「相手のことを考えろ。少しでも確実に追い詰めるには、やはり頭数が必要だ」



少し気分が落ち着いたのか、セバスティアーノの表情は険しいままだったが、言葉からは冷静さを感じさせた。



「相手はたかが獣だ。その気になれば・・・俺の敵じゃあない」



ハンスは立ち止まっているセバスティアーノの横をさっさと通り過ぎ、森の奥へと歩み入ろうとした。



「既に何人もの人を喰らっている獣が、たかが獣なものか。用心しろ、ハンス」

「分かっている」



セバスティアーノの問いかけに、軽く返事をしたハンスは、ゆっくりとゆっくりと森の中へと入っていく。森の中は少し先も見えないほど暗く、更に木々が視界を覆い殆ど何も見えない状態だった。それでも、狼の気配を探りながら、ハンスは深い深い森の中へと足を踏み入れていく。・・・そんな時だった。殆ど奪われている視界の中、辛うじてハンスは不自然な土のくぼみに気付く事が出来た。・・・獣の足跡だ。



「来て見ろ!あいつの足跡かもしれない!」



ハンスは後を振り返りながらそう叫んだ。・・・しかし後からは、返事も、仲間たちの気配さえも無かった。



「・・・ついて来ていないのか・・・?」



振り返った視線の先に広がるのは、今来た木々だらけの森だけ。セバスティアーノも、イワンも、そこにはいなかった。



「くそ、どいつも・・・!」



ハンスは苛立ちを募らせながら、小さく舌打ちをした。自分こそ正しいと思っているハンスにとっては、思い通りにならない周りの人間は迷惑な存在でしかなかった。しかし、イライラしている中でも、猟の最中。彼の感覚は研ぎ澄まされており・・・その時ふと、辺りの気配が変わったことに気がついた。続けて、何かが草むらでうごめく影と音に気付いた。



「・・・セバスティアーノか?」



そう呼びかけたが、返事は無い。・・・ハンスははっと状況に気付き急いで猟銃を構えた。返事が無い時点で、そこにいるのはイワンでもない。何より、気配を消すようにこちらに近づく理由が無い。・・・だとしたら・・・そこにいる可能性があるものは、限られていた。



ハンスは、少しずつ木々の間をすり抜けるようにうごめくその影とその気配をしっかり意識の中で追いかけた。すっと引き金に指をかけ、息を潜める。不意に汗が、一筋額から流れ落ちる。・・・焦ってはいけない。しかし、慎重になりすぎてもいけない。ただじっと、その時を待つ。



そして・・・急にふぅっと、さっきまで感じていたその何かの気配が消えた事に気付いたハンスは息を呑み・・・銃の先端を、その先を見つめる。・・・何処から来るのか・・・!?



「そこかぁっ!?」



刹那に響く、銃声。一発、二発。そして・・・三発目。その音を聞いて、木の上にいた鳥たちが一斉に鳴きながら飛び立ち、銃声と相まって静かだった森は急に騒がしくなった。そして、騒々しい音は確実に、他の気配を隠してしまっていた。



「・・・何処だ・・・!?」



ハンスは既に獣の気配を辿りなおしていた。・・・手ごたえがなかったのだ。たとえ銃であっても、獲物をしとめたときは、撃った後に狙い通り撃てたという感触があるはずだが、今はそれを感じない。右・・・左・・・背後・・・目で、耳で、肌で、気配を追う。何処から来るのか・・・あっちだって、恐らく次のチャンスを狙ってくるはず。そこを逃すわけには・・・そう考えているときだった。ふと、目の前を一枚の葉がひらりと舞い落ちた。程なくして何かがみしっと揺れる音が聞こえた。



「クソッ、上かぁっ!」



ハンスは慌てて頭上に向かって銃を構えたが、既に次の瞬間には落ちてくる何かに視界は影で遮られ、狙いをつけることは出来なくなっていた。ハンスがとっさに銃を横に持ち構えた瞬間、身体に上から大きな衝撃を受け、彼はそのまま地面に叩きつけられた。それでも腕を何とか踏ん張って伸ばしていたため、彼の喉笛が牙に襲われることはなかった。ハンスは痛みをこらえながら、目を開き目の前で息を荒げる何かをしっかりと確認する。・・・だが、徐々にその姿の異様さに気付き、思わず小さな声を上げていた。



「こ、こいつ・・・オオカ、狼じゃあ、ない・・・!?」



真っ先に飛び込んできた、獣の顔だけを見れば、すっと伸びたマズルと尖った耳、鋭い牙から容易に狼だと断定できる。だが、その身体つきはおよそ狼・・・いや、獣とはいえないなりなのだ。すっと伸びた手足、指先・・・そう、まるで人間のように。



「ウェア・・・ウルフか・・・!?クソッ、マジに化物じゃねぇかっ!」



ハンスは余り敬虔な思想を持ってはいない。自分のみ優れた人間であり、善悪という概念が存在しない彼にとって、宗教と言うものは所詮、他の人間からさげすまれぬように規律を守る程度のものでしかない。だから、近年宗教家が声高に叫ぶ化物の存在にも大して意識していなかったし、むしろ信じてもいなかった。・・・しかし、彼等が語っていた化物・・・獰猛なる人と獣の混じり物、ウェアウルフがこうして目の前にいて、自分を襲ってきているのだ。



「畜生め!銀も・・・聖水、も!ねぇんだ・・・ぞっ!」



激しく唸り声を上げながら、人知を超える力で自分を押し倒そうとするウェアウルフに対して、ハンスは力を込めて何とか押し返すと、猟銃の先を握り逆にもち、そのまま大きく振り下ろしてウェアウルフに激しく殴りつけた。怯むウェアウルフに、反撃の隙を与えないように、ハンスは無我夢中で殴りかかり続けた。



「クソッ、化物め!化物め!」



目の前の異形の怪物は、ハンスの猛攻に流石にその強靭な肉体を活かせず、ただうめき声を上げながらうごめいていた。ハンスは、そんな怪物の姿を見て、隙を感じたのか、怪物が怯んだ瞬間に一歩後に下がり素早く銃を構える。・・・これだけの至近距離。狙いを構える事も無く。



「ぉぉぉぁぁああっ!!」



そして再び響くのは銃声。何発も何発も、目の前で吹き上がる血しぶきで視界が覆われても、それでも何発も。弾が切れれば、詰められるだけ詰め、また撃ち続ける。動かなくなれ!動かなくなれ!既に動かなくなった怪物に向かってそう念じながら、ハンスは獣以上に獰猛な表情で銃を撃ち続けた。



「ハァッ・・・ハァッ・・・!」



どれくらいの弾を撃ったのだろうか。ハンスはまだ引き金を何度も引いては放し、引いては放しを繰り返していたが、ようやく既にこの銃から、引き金を引いても出てくる弾が無いことに気付くと、小さな悲鳴を上げながら、慌てて銃を放り投げた。・・・そして、ふと、自分の眼下に広がる赤い土に目を向けた。・・・そこに転がっていたのは、毛が赤く染まった異形の獣だった。



「ハァッ・・・コイツ・・・俺が・・・!?」



思わず銃を投げ捨ててしまったハンスは、もし今襲われれば完全な丸腰で、抵抗一つ出来ない状態だ。しばらく息を潜めて、目の前の動かない獣をじっと見ていた。・・・そう、じっと・・・そしてずっと。どれぐらい・・・そうしていただろうか。大分時間が経って、ハンスはようやく状況が飲み込めてきた。・・・つまりは、勝ったのだ。そう分かった瞬間、内から湧き上がる勝利者の実感がハンスの喉から乾いた笑いをこぼれさせた。



「・・・ッハ・・・ハハ・・・そうだ、そう・・・そうさ。そうじゃないか・・・俺は、俺なんだ・・・誰が・・・一番優れているか・・・そうだ、それだけじゃないか・・・フハ・・・そうだ、俺が!俺だから、成し遂げたんだ!」



やがてその笑い声は張りのある、高らかなものへと変わる。どちらが強かったのか。どちらの信念が勝ったのか。ハンスはその問を笑いながら自分に問う。



そう、答えは自分。答えはハンス。誰よりも頭がよく、誰よりも強く、誰よりも上に立つ男。



<ハンス・・・でも、嫌な予感がするのです>



嫌な予感?そんなものは吹き飛ばせばいい。



<狼なんかよりもお前のほうが、よっぽど獣だな>



よっぽど獣?獣で結構。事実、獣より、化物より強い事はこうして証明されたのだ。・・・そう、最も優れているのは、誰なのか。



「フハ・・・そうだ、俺は、こんな小さな領主で終わる人間じゃあないぞ・・・ハハッ・・・俺は、そう、誰よりも優れた俺が誰よりも上に立たなければならないんだ!」



まるで吠えるように叫ぶ。ハンスはもう、勝ち誇らずにはいられなかったのだ。その声は、恐らく森中に響いたであろう。その声を聞きつけてなのか、或いはその前に既に気付いていたのかは分からないが、次の瞬間ハンスの背後に2つの人の影が立っていた。



「ハンス!大丈夫か!?」

「・・・セバスティアーノ・・・イワンもか」

「・・・お前・・・その、狼は・・・!?」



セバスティアーノはハンスの横で赤く染まった、追い求めていた獣の姿に気付き、ハンスに問いただした。



「・・・見ての通りさ」

「そうか・・・お前が、やったんだな?」

「何度も言わせるなよ?・・・見ての通り、そういうことさ」



ハンスの高慢な返答に、セバスティアーノは少し眉をひそめたが、恐らく相当な死闘を繰り広げた上での勝利だったのだろうから、気持ちが高揚している事は理解できたし、それ以上に彼にとっても、仲間たちの無念を晴らす事が出来たのが何より心に安堵をもたらしていた。もう、もうこれで人々がこの獣に怯えて暮らす必要は無くなったのだ。



「しっかし・・・こいつぁ、ただの狼じゃあねぇなぁ」



いつの間にかイワンは倒れている狼の傍に近寄り、その体躯を見て異常さに気がついていた。



「多分、ウェアウルフさ」

「・・・俄かに信じ難いが・・・」

「俺はこの目でその姿を見て、そしてこの手でコイツを倒した。・・・嘘だと思うか?」

「いや・・・信じよう」



セバスティアーノは、興奮するハンスの言葉を制するように、静かに応えた。・・・疑いようも無い。セバスティアーノもまた、当然ながらウェアウルフを見るのは初めてだったし、存在にも半信半疑だったが、こうして目の前にその生物が横たわっているのだ。疑いようが無い。



「・・・どうする?」

「どうする・・・って何をだ?」



それまでウェアウルフをじっと見ていたイワンが不意に振り返ってセバスティアーノに問いかけた。



「こいつさ。散々やってくれたんだ。村で火あぶりにでもするかい?」

「・・・それで遺族の気持ちが整理つくなら、それも手だろうが・・・時間も時間だ。今日は何処かで保管すべきだ」

「保管?何を言ってるんだ。お嬢様への手土産にするのさ。いい毛皮が取れる」



不意に2人の会話に割り込むように、ハンスがそう言った。



「ウェアウルフの毛皮の上着とかか?趣味悪いぜ」

「他じゃ手に入らねぇ、希少な毛だ。価値も上がるさ」



そう言ってハンスはウェアウルフに近寄り、ずっしりとした重みのあるその身体を持ち上げようとする。しかし、人より一回り大きいその身体を持ち上げるには、ハンスでは不足だった。



「ったく、力無いなぁ、ハンスは」

「うるさい、さっきあれだけ戦ったんだ。流石に疲れている」



血に染まった白い巨体を、ハンスと共に持ち上げたのはイワンだった。しかし、一番力のあるセバスティアーノは手伝おうとはしなかった。



「・・・細身の俺達2人にだけ運ばせるつもりか?」

「十分だろう?」



セバスティアーノはそう言って彼等から目をそむけて一人先に森を抜けて行ってしまった。



「・・・何だ、あいつ?」

「色々、感じるところがあるんだろうさ。あいつだって、奥さんを・・・」

「あぁ・・・そう言えば、そんなこともあったな」



イワンに言われて、ようやくセバスティアーノが何故この狼に強い憤りと拘りを感じていたのか、ようやく思い出したハンスだったが、まだ若いハンスにはそんな感情は理解できなかったし、そんなことよりも、今は勝利の余韻と、これから待っている華々しい栄光に酔いしれるばかりだった。



それから小一時間ほど経っただろうか。ハンスとイワンは、ようやくウェアウルフの重い体を領主の館まで運んでくる事が出来た。 2人は糸が切れるようにウェアウルフの身体を地面へと叩きつけ、ようやく軽くなった身体を伸びなどして鳴らした。その音を聞き付けて、マヘリアが部屋から出てきた。



「ハンス!イワン!こんな時間に!?」

「見てくれ、お嬢様。これが村を襲っていた、化物だ」



ハンスは驚きの表情を浮かべるマヘリアを身ながら、自分の足元で倒れこむウェアウルフを指差した。マヘリアは言葉なく、手を口元に当てながら息をのんだ。



何度見ても、そこにいる異形の姿に、目を疑わざるを得なかった。マヘリアは家柄から学もあり、信心も深い。協会の言葉には耳を傾けてきたし、近年その化物が出るという話も聞いていた。しかし、まさか、自分の領地を襲っていたのがあのウェアウルフだったとは。



「・・・死んでるの?」



やはりマヘリアは真っ先にそれを確認した。もし異形の怪物がまだ生きていて、目が覚めようものなら大変な事になる。もっとも、傍にいるハンスの表情が明るい事から質問する前から答えも分かっていたが。



「当たり前だ。息もしていない」

「・・・ハンス、良かった・・・貴方が無事で。・・・怪我は、有りませんか?」



マヘリアはすっとハンスの傍により、泥と血にまみれた彼の頬をそっと優しく手でなぞりながら、心配そうな表情で問いかけた。



「ご心配なく。俺はこの通りです」

「良かった・・・本当に良かった・・・!」



マヘリアは、ハンスの胸に顔を埋めながら涙を流した。ずっと胸を去来していた嫌な予感。それがただの思い過ごしだとわかり、張り詰めていた何かが一気に解き放たれたような気分だった。きっと、彼への思いが通じたのだろうと、マヘリアは心の中で神に感謝していた。



「ハンス、疲れたでしょう。今、お茶を入れさせますからお飲みになったら?」

「ありがとう、お嬢様。喜んでいただきましょう」



2人は揃ってその場から奥の部屋へと行こうとした・・・その時だった。



『・・・憎い・・・』

「・・・え・・・?」

「マヘリア・・・どうかしたのか?」

「今・・・何か、声が・・・?」



マヘリアはそう言って辺りを見渡す。・・・今の声は、ハンスでも、イワンでも、ましてや当然自分の声でもなかった。聞き覚えの無い声。・・・それも女性のもののように聞こえた。



『・・・憎い・・・憎い・・・!』

「聞こえる・・・聞こえるの!誰かの声が!」

「落ち着け、マヘリア!誰も声なんて出していない!」



マヘリアに聞こえている声が、ハンスには聞こえていないようだ。マヘリアはそんなハンスを押しのけ、慌てた素振りで辺りを見渡す。誰かがいる。ハンスとイワン、そしてマヘリアのほかに誰かがいるのだ。・・・その瞬間、マヘリアははっと気付き、さっきまであの怪物が横たわっていた方を見ようとした・・・その瞬間だった。



『憎い!私が・・・死んだのに、幸せそうにしている、領主の娘が憎いぃ!』



おどろおどろしい声と共に、マヘリアの身体に衝撃が走った。・・・恐らくそれは、さっきまでいたはずのウェアウルフがいつの間にかいなくなっている事に気付いた事と、同じタイミングだったであろう。・・・だが、気付くのが遅かった。誰もが、何もが。



「マヘリアァァァッ!」



ハンスの叫ぶ声が聞こえた。横でおびえた表情でこちらを見ているイワンの姿も確認できた。・・・そして、マヘリアが次に見たのは・・・自分の左胸から飛び出した、赤く染まった猛々しい獣のような腕だった。その腕の辺りから、強烈な痛みが走ったが、すぐに感覚は遠のき始めた。・・・あまりに一瞬の出来事だった。死んでいたはずのウェアウルフが突如動き始め、その腕でマヘリアの胸を貫くまで、本当に目にも止まらぬ出来事だったのだ。だからイワンは勿論、ハンスでさえ、何も出来なかった。



「・・・ハン・・・ス・・・!」



何とか声を出して助けを求めようとするマヘリアだったが、声を出そうとするたびに、口の中に生暖かい液体が溢れ、こぼれ落ち、彼女の身体を赤く染めるばかりだった。



「畜生!この死に損ないめ!」



ハンスは血相を変えて、慌てて猟銃を手に取り、ウェアウルフに照準を合わせようとする。だが、その目の前にはマヘリアがおり、うかつに手を出すことも出来ない。そしてどうにも引き金を引くことをためらっている・・・その時、ウェアウルフの様子が急に変わり始めた。マヘリアの胸から突き出すその腕の先、鋭く尖った爪が、急に剥がれポロリと取れると、そのまま地面へと落ち粉々に砕けて灰と化した。・・・爪だけじゃない、全身が崩れ始めている。ウェアウルフの身体はまるで泥人形が乾いたかのように、全身がボロボロになり、砕け散っていく。そしてその灰は、マヘリアの身体に降りかかる。やがて、ウェアウルフの身体は完全に崩れ去り、身体の支えを失ったマヘリアの身体は力なく地面へと倒れこんだ。灰と化した、ウェアウルフを巻き上げて。



「マヘリア!マヘリア!」



ハンスは猟銃を捨てマヘリアの元へと駆け寄る。しかし、白かったウェアウルフの灰が、既に赤く染まりきっているほど、マヘリアから流れ出た彼女の命は、多かった。・・・もう、息もしていない。



「・・・くそ・・・!畜生、畜生、畜生!」



ハンスは声を荒げた。そして、マヘリアの身体を何度も揺り動かす。・・・しかし、彼女が動く様子は無い。



「マヘリアめ・・・お前が死んだら・・・俺は領主になれないんだぞ!?これだけの財産を・・・目の前にして・・・!くそ、息をしろ!死ぬなら俺と結婚してからにしろってんだ・・・くそ!」



焦りと苛立ちからか、ハンスは自然と思ったことが口から出ていた。それはもしかすると、どこかで既にマヘリアが死んでいることに対しての、安心感や油断もあったのかもしれない。彼女に対する本心を、彼女に聞かれる恐れが無いから。・・・だが、幸か不幸か、ハンスが見ている目の前で、マヘリアの目はゆっくりと開いたのだ。



「・・・マヘリア!?生きているのか!?」

「ハ・・・ンス・・・」

「俺のことが分かるんだな!?マヘリア、待ってろ!今医者を・・・!」



ハンスは、マヘリアが意識を取り戻した事を確認すると、急いですっと立ち上がり、彼女の傍から離れようとした。・・・しかし、ハンスは身動きが取れなかった。いつの間にか、彼の手首を、マヘリアがしっかり掴んでいたのだ。



「・・・マヘリア、放してくれ。俺は医者を・・・!」

「ハン・・・ス・・・ハンス・・・」



ハンスは何とかマヘリアの手を振り解こうとしたが・・・どういうわけか、ぴくりとも動かない。ハンスは、細身ではあるものの、自信家の彼らしく力は普通の人間よりずっと強く、逆にマヘリアはずっと可愛がられて育てられてきたため、重いものを持つことさえままならないような、その程度の力しかないはずなのだ。・・・しかし、今はまるでその力が逆転してしまっているかのように、マヘリアの力にハンスは全く敵わなかった。・・・勿論ハンスが弱くなったわけじゃない。マヘリアが・・・以上に強いのだ。



「マヘリア・・・!?」

「ハンス、ハンス、ハンス・・・ハーンス!!」



異常な力を持ち、自分の名前を連呼するマヘリアに対して、流石のハンスも気味悪がり始めた。・・・しかし、その感情は、恐怖へと変化していく。それはハンスの手首を強く握る、彼女の手を見た瞬間だった。それは見覚えのある手。しなやかで細い指・・・その先から突き出した黒く鋭い爪。指や手の甲にはびっしりと白い毛が、覆い尽くしていた。



「マ、マヘリア・・・お前!?」



慌ててハンスは仰向けになっているマヘリアの方を見た・・・そう、既に変化が始まっている彼女のことを。



手を覆っていた白い毛は、徐々に彼女の身体全身を覆いつくしていく。細かった彼女の身体は徐々に筋肉が盛り上がり、一回り、いや二回りも大きくなっていく。臀部からはその毛がまとまって噴出し、ある意味その外見に似つかわしく無い美しい尻尾が形作られる。その一方で彼女の顔は大きく歪み、鼻先は突き出し、口の中には牙が生えそろい、瞳はまるで満月の如く金色に輝き、耳は尖りながら頭の上へと移動していた。・・・そう、その顔は最早狼・・・いや、さっき灰となったはずのウェアウルフそのものだった。



「ウェア・・・ウルフ・・・マヘリアが・・・!?」



ハンスは、さっきマヘリアに駆け寄ろうとした時に猟銃を捨てたことを後悔していた。ウェアウルフのものと化した手で、ハンスは未だ手首を掴まれている。逃げる事も出来ない。戦うことも出来ない。・・・できることはただ、おびえるだけ。つい数時間前まで、目の前にいるのと同じウェアウルフを倒した勇ましい青年の姿は、そこには無かった。



「うわぁ、放せ!はな、畜生!マヘリア!俺のことが分かるなら放しやがれ!・・・畜生、化物め!くそ!くそぉ!」



ハンスは、殆ど涙目になりながら、必死で身体をうねらせ、もがき、何とかマヘリアから逃げ出そうとしていた。しかし、どうにも身体は自由にならない。一層強く握り締めるウェアウルフから、ハンスはもう逃れる事など出来なかった。そうして暴れているハンスのことを、未だ倒れこんでいるウェアウルフはその金色の瞳を丸く輝かせてじっと見つめていたが、しばらくすると静かに・・・まるで黄泉の扉が開くかのように、マズルと化したその口を開き、何か呟き始めた。



「・・・ハンス・・・」

「・・・マヘリア・・・!?頼む、放してくれ!俺は・・・!」

「・・・愛してる」



それは、マヘリアの心の底からの、本当の気持ちだったのだろう。嘘と偽りの愛で固めていたハンスとは違い、マヘリアは真にハンスを愛していた。そしてその愛が恐らく・・・歪んだ形でハンスを貫いたのであろう。気付けばずっと手首を握っていた手とは反対の手が・・・静かに、しかし確実に、愛しき者のハートを・・・ハンスの心臓を貫いていた。



「ガフッ・・・!?マ、マフ・・・ェリィアァァ・・・!?」

「ハンス、私は例え貴方がどんな人であっても一緒にいたい」

「ァ、アグッ・・・!」



ウェアウルフは、自らが引き起こした事態をまるで気にもとめない様子で、淡々と語り始めていた。目の前で想い人が、言葉通り死に物狂いの形相をしているにもかかわらず。



「・・・あのウェアウルフは・・・私の前のウェアウルフは、ジャックの奥さんだったの。・・・私の前のウェアウルフの被害者。・・・ウェアウルフになって、分かったわ」



ようやく、マヘリアは強く握っていたハンスの手首を放した。・・・もう掴んでいる必要がなくなったのだ。手首を握るよりもずっと、マヘリアは確実にハンスのことをとどめておく事が出来たのだから。



「ウェアウルフは・・・伝染するの。ウェアウルフに胸を貫かれた人間はウェアウルフになる。そして・・・貫いたウェアウルフは灰となり崩れ去る。・・・ウェアウルフに襲われた人の死骸が残らない真相だったの」



ウェアウルフは、静かに語りながら自分の腕に突き刺さっているハンスを、腕を刺したまま静かに横に寝かせ、そして今度は逆に仰向けになったハンスにウェアウルフが覆いかぶさるように体勢を立て直した。



「そして・・・ウェアウルフになった人間は、なった直後は理性が残っているの。だから、皆自分が怖くなって、領地の外へ逃げ出すの。・・・だけど、しばらく経つと、その理性は消えてなくなってしまう。・・・ただの獣になってしまうの。・・・これが、ウェアウルフが人を襲っては逃げ、また戻ってきて襲う、その真相」



ウェアウルフは、輝く瞳を少し細めながら、自分の白い毛を赤く濡らしていくハンスの傷口を見ていた。・・・それを見てももうマヘリアは何も感じなくなっていたのだから、ある意味既に理性は失われつつあったのかもしれない。しかし、その傷口から、血ではなく砂のようなものが落ちたことに気付くと、ウェアウルフは狼の顔ではあるものの、何処か寂しげな表情を浮かべた。・・・身体の崩壊が始まったのだ。



「・・・ハンス。貴方がウェアウルフを連れてきたから・・・私がウェアウルフになった。・・・貴方が私をウェアウルフに変えたの」



少しずつ崩れ落ちる自分の身体、しかしそのことを気に留める様子も無く、ウェアウルフは苦しむハンスの頬を、さっきまで手首を握っていたその手で、しかし今度は繊細に、優しく、そっと撫でた。まるで、わが子をいとおしむかのように。



「だから・・・私は貴方をウェアウルフに変える。私の理性が有るうちに。そうすれば、貴方と私は同じことをしただけ。貴方一人が悪いわけじゃなくなる。・・・私は貴方と、対等になれる」



ウェアウルフは、大きく裂けた口元をニッと吊り上げ、笑顔を作ったようだったが、ハンスには勿論見えていなかっただろう。・・・それがマヘリアの最後の笑顔だった。体の崩壊は徐々に加速し、下半身はもう殆ど原形をとどめておらず、上半身も殆ど砕け始めていた。



「私は・・・貴方を愛していた。そして、貴方が・・・私を愛していないことを・・・私の財産目当てで近づいてきていたことも知っていた。・・・それでも良かった。それでも私は貴方を愛していたから。・・・だから・・・私は・・・私、ハンス・・・聞こ・・・える・・・?・・・ハ・・・ン・・・あ・・・愛し・・・」



徐々に女性の美しくか細い声は小さくなっていき・・・そして・・・まるで風船がはじけるようにウェアウルフの身体は灰となってはじけ飛び、その上に血まみれの、胸に大きな穴を開けたハンスが倒れこんだ。



その一部始終をイワンは見ていた。マヘリアの話も勿論聞いていた。・・・だからたとえハンスがそこに倒れていても、イワンはもう助けるつもりも無かった。



マヘリアの話が本当なら・・・ウェアウルフに胸を貫かれた人間がウェアウルフになるとしたら・・・。イワンは、死にたくもなかったし、ウェアウルフにもなりたくなかった。・・・しかし、あまりのことに腰が抜けて、逃げ出す事も出来ずにいた。そしてそのまま・・・ハンスの身体の変貌もその目に焼き付けなければならない事になるのだ。



「・・・くそ・・・馬鹿な・・・俺は・・・俺が・・・!?」



俄かに、倒れこんでいたハンスはその身体を起こしながら、小さく呟き始めた。まるでさっき胸を貫かれた事が無かったかのように。



「・・・いやだ・・・俺はウェアウルフになんてなりたくない・・・!」



すっと立ち上がり、ハンスは辺りを見渡した。・・・そして、腰をぬかして呆然としているイワンのほうへと、よろめきながら歩き始める。



「頼む・・・イワン・・・助けてくれ・・・俺はウェアウルフになんてなりたくない!俺は人間でいたい!俺はまだすべき事があるんだ!頼む!イワン助けて・・・くれ・・・!」



普段、人にモノを頼む事など、ましてや人に助けを請う事など無かったハンスも、流石にこの状況には誰かにすがらざるを得なかった。・・・だが、イワンの目は既に化物を見る目になっていた。そして・・・ハンスの表情を窺いながら恐る恐る答えた。



「・・・無理だ、ハンス。・・・分からないのか?・・・もう、もう始まってるんだぞ・・・!」

「始まっている・・・!?」



ハンスは、言われて初めて自分の手を見た。・・・そう、始まっていたのだ。既にその手は、今までハンスが生まれてから使ってきた人の手ではなく・・・さっき自分を貫いた、あの恐ろしい、毛で覆われた手と化していたのだから。



「ァ、アァアァァァッ!?」



ハンスはその身をかがめて、静かにうずくまった。そして考える。どうすれば変身を止められるのか?どうすれば人間に戻れるのか?ハンスは必死で考えた。・・・しかし、それは現実逃避でしかなかった。考える事では、変化を止める事など出来はしないのだから。



うずくまるハンスの身体は、マヘリアの変化と同じ変化の過程を辿っていた。全身の筋肉が盛り上がり、一回りからだが大きくなる。その肌を、白い毛がまるで、カーペットにミルクが染み渡るかのように、それはある意味、気味が悪いほど美しく広がっていった。



「・・・嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ・・・嫌だ・・・!」



まるで子供が駄々をこねるかのように、ハンスは同じ言葉を繰り返す。・・・しかし、変化は確実に彼の身体を蝕んでいく。そう呟く彼の口元が急に張り詰めたかと思うと、そこにも毛が生え始め、更に上唇は鼻と共に前へと突き出し始め、鼻は黒く変色し、その横からは鋭いひげがピンと伸び始める。



「ゥオ・・・グ・・・ウォゥ・・・!?」



変化の影響なのか、喉から思い通り声も出せず、ようやく出た声も、口がうまく動かせず発音もままならない。言葉を自分に言い聞かせる事さえ出来なくなり、不安がハンスの胸を覆っていく。・・・だが、それよりもハンスの身体を変化が覆いつくすのが早かった。彼の耳は徐々に大きく尖り、頭の上の方へと移動していく。・・・変化は顔だけじゃない、尻尾だってすっかり生え終わっているし、足も・・・人の足とは程遠い、獣の足と化してしまったのだから。



「・・・ゥゥ・・・俺・・・俺は・・・本当に・・・!?」



ようやく自分の口の感覚が分かってきたのか、ハンスは恐る恐る声を上げるが・・・だがそれは同時に、彼の変化が終わった事を告げていた。



「俺は・・・俺が・・・ウェアウルフに、本当にウェアウルフになっちまったのか!?」



ハンスは慌てて全身を確認するが・・・体中の何処を見ても、見覚えのある自分の身体はそこには無かった。綺麗に生え揃った、白い狼の毛。足と手の指先から突き出した狼の爪。その手でそっと触れた自らの顔は・・・人の形をしていないことがすぐに分かった。・・・そして、認めざるを得なかった。自分が・・・ウェアウルフになってしまった事を。



「嘘だ・・・俺はウェアウルフを倒した英雄だ・・・将来この地を治める男だ・・・なのに!なのに、何故俺がこんな目にあうんだ!?・・・教えてくれ、イワン!俺が・・・俺が何をしたって言うんだ!」

「ば・・・化物!こ、これ以上・・・これ以上近づくんじゃねぇ!」



イワンはそう叫ぶと、力の入らない身体を何とか動かして、さっきハンスが捨てた猟銃を手に取り、目の前のウェアウルフ目掛けて構えた。



「イワン・・・正気か!?俺だぞ!?ハンスだ!」

「お前はもう・・・ハンスじゃねぇ・・・化物だ!」



イワンは手が震えながらも、そう言い放った。・・・その言葉に、ハンスはどうしていいか分からなくなった。自分は化物になってしまった。自分の力では人間には戻れない。他人の力でも人間に戻れない。



・・・だとすれば、どうすればいいのか。



「・・・畜生!」



ウェアウルフは、イワンに背を向けて慌てて屋敷の外へと飛び出そうとした・・・瞬間だった。騒ぎを聞き付けてセバスティアーノが戻ってきた所と鉢合わせたのだ。その手にはまだ、猟銃が握られていた。



「ウェアウルフ!?・・・生きていたのか!」



セバスティアーノは慌てて銃を構え、ためらうことなく引き金を引いた。ハンスは弁明の余地も無く、セバスティアーノの放った銃弾は、ウェアウルフの肩を貫いた。



「ギャオゥゥウッ!」



ウェアウルフは獣らしい声を上げて一瞬痛みに悶えたが、すぐに体勢を立て直すと、セバスティアーノに背を向けて走り去っていった。セバスティアーノは、すぐにはそれを追わず、一旦屋敷の中へと入り様子を確認しようとした。・・・しかしそこにいたのはイワンだけだった。ハンスとマヘリアの姿が見えない。



「・・・今、ウェアウルフが逃げていったぞ!一体・・・どうなってるんだ!?」

「あの・・・ウェアウルフは、ハンスが・・・ハンスがウェアウルフになっちまったんだ・・・!」

「ハンスが・・・!?」



セバスティアーノはすぐには状況が飲み込めなかったが、いずれにしてもあのウェアウルフを野放しにするわけにはいかない。そう思い慌てて身を翻しウェアウルフの後を追いかけ始めた。・・・何処に逃げていくのかはすぐ分かった。セバスティアーノの撃った銃弾で、あのウェアウルフは肩に怪我をしている。・・・血が、地面に垂れて道しるべを作っているのだ。



「辿っていけば・・・!」



セバスティアーノは、今度こそウェアウルフの息の根を止めようと、必死の形相で、足元の血痕を辿りながら道を進んでいった。



その頃、ウェアウルフとなったハンスは、無我夢中で走り続けた。走ったから、人間に戻れるわけでは、勿論ない。しかし、その場から逃げ出さずに入られなかったのだ。



「くそ、何で・・・何で俺が・・・俺は人間だ・・・優れた人間だ・・・!」



そう自分に言い聞かせて、何とか理性を保とうとして入るものの、既に自分が4つ足で自然に走っていることにさえ、気付いてはいなかった。



「・・・そうだ、俺は人間だ。英雄になる人間だ・・・なのに・・・何を逃げている・・・何故逃げている・・・!?」



記憶や情報が混乱しているのか、徐々にハンスは自分のおかれている状況も分からなくなっているようだった。それでも、不安が心を襲うため、兎に角その場から逃げ出そうと必死だった。・・・だが、闇雲に走っていたせいか、ウェアウルフが思わずにたどり着いたのは、下に細い川が流れる崖の上だった。・・・これ以上はこの先には進めない。引き返そうか・・・そうした時だった。



今自分が来た道を、セバスティアーノが辿ってきている匂いを嗅ぎ取ったのだ。・・・勿論、何故そんな離れている人間の匂いを嗅ぎ取る事が出来たかを疑問に持つほど、ハンスに理性は残っていなかった。ただ、セバスティアーノに会えば、また銃で撃たれる可能性が高かった。



「どうする・・・!?俺は、どうすれば助かる・・・英雄になれる・・・!?」



だが、冷静さを欠く今のハンスの頭では、もうどんな答えも浮かばなかった。そうこうしているうちに、息を切らせながらセバスティアーノが追いついた。勿論、その手に猟銃を持って。



「・・・セバスティアーノ」

「その声・・・本当にハンスなんだな」

「そうだ!俺はハンスなんだ!頼む、助けてくれ!」

「・・・あぁ、助けてやる」



セバスティアーノはそう答え、静かに猟銃を構えた。そして、再びためらうことなく引き金を引いた。銃から放たれたその弾は、今度はウェアウルフの腹部に命中する。ハンスは突然の痛みに悶えながらも、セバスティアーノを睨みつけながら叫んだ。



「セバスティアーノ!何をする!俺だ!ハンスだ!何故俺を撃つ!?」

「・・・お前がウェアウルフになったからだ。ウェアウルフは・・・撃たねばならない。・・・撃って、お前の魂をウェアウルフから解放してやる」

「・・・そうだ、ウェアウルフは殺さなきゃいけない・・・ウェアウルフを殺して、俺が英雄にならなきゃいけない・・・」



ウェアウルフは、ハンスの声でブツブツと呟きながらふらつき始めた。・・・腹部に受けた一発が効いているようだ。



「・・・そうだ、ウェアウルフを殺せば俺は英雄になれる!マヘリアは俺と確実に結婚する!俺は・・・領主になるんだ!」

「・・・まだ分からないのか!?お前はもう領主にはなれない!」

「なれない・・・だと!?」

「お前は・・・もう、ウェアウルフなんだぞ!」

「俺が・・・ウェアウルフ・・・」



セバスティアーノの放った言葉に、ウェアウルフはしばし何かを考える表情でじっとしていたが、やがてその手を大きく広げ、爪を立てて高らかに吠えるように叫んだ。



「・・・ウェアウルフは俺が殺す!ウェアウルフを殺せば・・・俺が英雄だ!何処にいる、ウェアウルフ!?」

「だからハンス!お前が、ウェアウルフなんだ!」

「そうだ!俺がウェアウルフだ!・・・俺を殺せば・・・俺は英雄だ!」



セバスティアーノはその時点で・・・既に正気を失ったハンスの声を聞いた時点で、何が起こるのか、ある程度予想していた。・・・だが、実際目の当たりにすれば・・・やはり心地の良いものではなかった。



力強く振り上げられたウェアウルフの腕は、勢いよく彼自身の胸を貫いたのだ。同時に最早獣のものとも思えない、壮絶な叫び声があたりに響き渡った。・・・そしてその叫び声が収まり、静けさが戻ると、自分の腕を自分の胸に突き刺したウェアウルフから、今度は笑い声が聞こえ始めた。



「ハハ・・・俺が・・・ウェアウルフを倒した!クフ、ァハハッ・・・俺が、英雄だ!そう、俺は・・・優れた人間・・・ウェアウルフである俺を!俺が退治したんだ!・・・そうだ・・・俺は・・・英雄・・・俺・・・は・・・ウェア・・・ウル・・・フ・・・」

「・・・ハンス・・・」



ウェアウルフから漏れるハンスの声は徐々に小さくなり、彼の身体は更にふらつき始める。・・・するとウェアウルフの身体から砂のようなものがこぼれ始める。・・・体が、灰となり始めたのだ。



「俺は・・・ハン・・・ス・・・俺が・・・俺は・・・優れ・・・た・・・人間・・・にんげ・・・えい・・・ゆ・・・」



もう、繋がらない何かの単語を連ねながら、ウェアウルフはフラフラと崖の方へと歩み・・・そしてその身体は音も無く、静かに崖の上から消え、遥か下に臨む川へと落ちていった。セバスティアーノは急いで崖の端まで駆け寄り、川を見下ろしたが、その時丁度、水しぶきが川から上がっていた。



川へと落ちた灰の固まりは、すぐに形を崩して、川に溶けるようにして流れていった。ウェアウルフは・・・完全に消え去ったのだ。これでもう、ウェアウルフに胸を貫かれて、人がウェアウルフと化すことはなくなったのだ。



「・・・終わった・・・全て・・・」



セバスティアーノは眼下の川を眺めながら、静かに胸の前で十字を切った。・・・そう、彼の戦いは終わったのだ。妻を失い、友や仲間、その家族を失い、復讐に生きた男の戦いは、これで幕を下ろしたのだ。そしてセバスティアーノは何かを悟ったような表情を浮かべながら、静かにその場を立ち去っていった。これでようやく訪れる、平和な日々を思い浮かべながら。



事実、それからセバスティアーノが病でこの世を去るまでの間、彼は穏やかな人生を過ごすことが出来た。多くの悲しみを乗り越えた男の旅立ちを、多くの人々が悲しみ、見送ったのだ。



だからセバスティアーノは知るはずも無かった。彼が世を去ってしばらく後に、あの川の下流でライ麦の栽培が始まった事を。・・・川から水がしみこみ、あのウェアウルフの灰を含んだ土壌が、その育成に使われたことも。そしてそれが、再びあの悲劇を呼び起こす事も。



だが、それはまだ先の話。まだ川は静かに、しかし力強く、一人の英雄を運ぶだけだった。





その愛が灰になる時 完

posted by 宮尾 at 00:00| Comment(0) | 短編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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