トランスフルパニック! 第3話「2人の体温」
【人→ポケモン】
望まなくても、全ては変わっていく。それなら、望んで自ら変わっていくほうが、きっと自分らしい未来にたどり着ける。
一体今何が起きているのか。それを理解するまでしばらくの時間が必要だった。思えば1週間前、 風邪を引いてくしゃみをしたのがそもそもの始まりだった。それまでごく普通の中学生として生活していたのに、 訪れた突然の変化が大きく運命を狂わせ始めた。しかもそれは自分だけじゃなかった。・・・そう、ここにいる2人・・・いや、 2匹とも偶然なのか必然なのか、いずれにせよ全く同じ運命を迎えていた。
「・・・ダネェ・・・?」
「ゼニ・・・ゼニィ・・・」
互いに言葉をかけようとするが、聞こえる声は人の声とはかけ離れた奇妙な鳴き声。だけど、 2匹の間だけは互いに言っている言葉の意味が理解できる。・・・少年の前にはメスのフシギダネ。少女の前にはオスのゼニガメ。 2匹は互いによく知る人物の制服の切れ端を纏いながら、驚きの表情を浮かべ固まっていた。
『・・・賢太郎・・・なんだよね・・・?』
『そういうお前も・・・本当に・・・さくらなんだな・・・?』
互いに自分に言い聞かせるように、本来その制服を着ているはずの幼馴染の名前を呼んだ。そして相手の問いかけに互いに小さく頷いた。・ ・・そして何度かこのやり取りを繰り返していた。やはり頭では理解できてはいるものの、どうもすぐには納得できないものらしくて、 目の前にいるポケモンが自分の幼馴染であることを、そして自分もまたポケモンである事を認めさせるためだった。2匹はようやく、 相手のことをしっかりと理解し認めると、2匹揃って辺りを見渡し始めた。こんなところ誰かに見られたらまずい・・・が、 幸いこの時間帯の住宅街は人も少なく、人が通る気配はない。・・・隠れるなら今のうちだった。
『とりあえず、散らかった制服とか急いで片付けて、さくらの家の中に入ろう』
『え・・・でも、私この身体じゃ物なんて持てないよ・・・』
さくらはそう言いながら自分の手・・・だった、前足を見た。扁平な足の平、その先にちょこんと生えている短く白い3本の爪。・・・ どう見たってこれじゃ物は持てないし、持てたとしても結局今のさくらは2本足で歩く事が出来ない。 物を持って移動する事が出来ない身体だった。さくらはそんな自分の身体に情けないような、悔しいような、申し訳ない気持ちになった。だけど、 目の前のゼニガメは表情を変えずに切り返すようにさくらに言葉を続けた。
『何言ってるんだ。フシギダネなんだから、”つる”を使えばいいだろ?』
『・・・え?』
『だから、”つる”だよ、植物の。・・・フシギダネなら使えるはずだろ』
『そ・・・そんなこと言われても・・・!』
賢太郎の言葉に、フシギダネは眉をゆがめて一歩たじろいでしまう。・・・フシギダネなら使える・・・そう言われても、さくらは人間だ。 フシギダネの姿をしているけど人間なんだ。急に言われても・・・。
『・・・ったく、しゃあないなぁ・・・じゃあカバンだけ口にくわえてちょっと待ってろ』
『え、あ・・・うん・・・』
賢太郎の少し強い口調に、さくらは少しびくっとなって言われるがままその大きな口を小さく開き、 落ちていた自分のカバンをつまむようにくわえる。もっとも、今のフシギダネの小さな身体では、 教科書が沢山入った大きく重いカバンを持ち上げる事は出来ず、何とか引きずりながら運べるぐらいだった。 さくらはこの身体の不便さと非力さを改めて思い知らされていた。・・・フシギダネの姿じゃ何も出来ない。 人間の姿なら当たり前に出来る生活も、フシギダネの姿じゃ難しい。・・・そしてくしゃみをする度にこの姿に変身してしまうのでは・・・ やっぱり、まともな生活なんて・・・。カバンの重さと気分の重さからさくらの頭は自然に垂れていた。
その一方で、ゼニガメの姿の賢太郎はその小さな手で、落ちている制服の切れ端なんかを拾い集めていた。大分短くなっている指では、 上手く物はつかめないもののフシギダネよりは指がハッキリしているため、辛うじて小さなものなら拾う事は出来た。 拾った切れ端は腕に抱くように、落ちないようにして更に切れ端を拾っていく。だけど、そもそも小さな身体で持てる量は限られている。 ある程度拾った後、賢太郎は一息をつくように一つ大きく深呼吸をした。
『・・・細かいのは・・・しゃあないな。・・・吹き飛ばすか』
『吹き・・・飛ばす・・・?』
さくらは思わず口からカバンを放し、賢太郎に問いかけた。
『あぁ。・・・こうやってな!』
賢太郎はそう叫ぶと、身をのけぞらせてもう一度大きく息を吸い込んだ。そして上半身を前に突き出すように大きく息を吐き出すが・・・ 出てきたのは息ではなかった。強い勢いで結構な量の水がゼニガメの口から噴出しているのだ。
『ちょ・・・え!?・・・賢太郎・・・!?』
さくらはただ驚いて、賢太郎に質問しようにも上手く切り出す言葉が思い浮かばなかった。それぐらい頭の中が一瞬で真っ白になったのだ。 そうしている間にも賢太郎は自分の口から噴出す水で、辺りの細かな破片を吹き飛ばし、近くの排水溝に流していった。一通り切れ端がなくなり、 辺りには水浸しになったアスファルトと、呆然と立ち尽くすフシギダネの姿があるだけだった。
『ふぅ・・・じゃ、一旦さくらの家の中に入るぞ』
『・・・え、あ・・・』
『ほら、大分時間もたったし、こんな所で人間に戻ったら大変だろ?』
『そ・・・そうだよ・・・ね』
さくらは上手く回らない頭で必死に答えると、再びカバンをくわえて玄関の前まで運んだ。賢太郎もそれについてきて、 さくらのとなりで息を荒げている。どうやらあれは結構疲れるらしい。・・・だけど、考えてみればこの姿じゃ玄関の鍵は当然開けられないし、 インターフォンも押せない。ドアをノックしても、気付いてもらいづらいだろう。
『・・・裏に回ろう。庭からなら、母さんも私たちの姿が見えるだろうし』
『あぁ』
そう言ってさくら達は庭の方へ回り、ガラス戸を叩いて呼びかけた。勿論近所に気付かれない位の音で。 しばらくするとお母さんが慌てて飛んできた。けどその光景を見て思わずお母さんは叫んでしまった。
「嘘!?もう一匹!?」
てっきりフシギダネになったさくらが1匹でそこにいると思っていたのに、その隣にはもう一匹青いカメのようなポケモンがいたのだから、 驚いても仕方が無い。だけど驚いてばかりもいられないので、お母さんは急いでベランダのガラス戸を開けて、2匹を家の中にいれ、 慌ててカーテンを閉めた。
「どうしてポケモンがもう一匹いるの・・・!?」
不思議そうな表情でゼニガメを見るお母さんに対して、ゼニガメは自分の身体にまだ纏わり付いて残っていた制服の切れ端に付いた、 「木之下」と書かれた自分の名札を見せた。
「・・・ひょっとして・・・賢太郎君!?」
「・・・ゼニィ」
ゼニガメは肯定の意味で静かに頷いた。お母さんはまた、気が遠くなりそうになったけど、すんでのところで踏みとどまった。・・・ お母さんも賢太郎の事は知っている。娘の幼馴染なのだから知らないわけがない。しかし、 そんな彼まで娘と同じようにポケモンになってしまったのだ。一体何が起きているのか。そう考えようにも頭が上手く回転しない。ただ、 動転してしまっていた。それでも何とか次に何をしなければいけないのか考え、ふと2人がこのまま戻ると、着る服がないことに気付いた。 戻るタイミングは自分では上手くコントロールできないらしいから、急がなければ、二人は・・・。
「ちょ、ちょっと待ってなさい!今服を・・・あ、その前にバスタオルがあるべきね!」
そう叫んでお母さんはまずバスタオルを2枚手に取り、フシギダネとゼニガメの身体にかぶせた。そして今度は急いでさくらの服と、 賢太郎に合いそうなお父さんの服を探しにいった。
『おばさん、お前がフシギダネになる事知ってるんだ』
『うん、変身したところ、直接見られちゃったし。・・・賢太郎は知られてないの?』
『俺、風邪引いたってことでずっと部屋で寝てたからな。・・・まぁ、たまたま親のいる前でくしゃみしなかっただけだけど』
ゼニガメは持っていた制服の切れ端を適当なところにおいて、空いたその手でバスタオルを押さえた。 ようやく気分が落ち着いてきたさくらは、まだ少し疲れた様子の残るゼニガメを見て、さっきのことを思い出した。・・・ゼニガメが、 賢太郎が口から大量の水を吐き出したあの瞬間。あれは・・・ポケモンの能力なのだろうか。そして何故賢太郎が使えるのか・・・ 聞こうとしたその時だった。
『ぅっ・・・!?』
『ん・・・どうした、さくら!?』
『ご、ごめん・・・あっち、向いてて・・・!』
『え?・・・あ、あぁっ・・・!分かった、ゴメン・・・!』
賢太郎は初め意味が良く分からなかったが、恥ずかしそうなフシギダネの顔を見て、ようやく状況を理解した。さくらの身体が、 フシギダネから人間に戻ろうとしているのだ。人間に戻るタイミングを自分でコントロールできないため、こういう事態が起きてしまうのだ。 賢太郎は慌ててフシギダネとは反対の方向を振り返り、二、三歩前に出た。 そして振り返ったり視界にさくらの姿が入らないように必死に動きを我慢していた。
その間にもさくらの身体の変化は進んでいく。手足の先からすっと指が伸び、手足そのものもしなやかに伸びていく。 顔は徐々に小さくなり、ふわぁっと柔らかな髪が舞う。柔らかで血の気が通った健康的な肌色の皮膚。
「・・・戻った・・・」
さくらは小さくそう呟くと、さっきお母さんが渡してくれたバスタオルを急いで身体に巻きつけた。そこに丁度お母さんが、 服や下着を持ってやってきた。
「大変!さくら、早く着なさい!」
そう言ってお母さんは、持ってきたさくらの服や下着を投げつけるようにさくらに渡した。片手でバスタオルを押さえながら、 もう一方の手でそれを受け取ると、チラッとゼニガメのほうを見た。
「・・・まだ見ないでよ?」
「ゼニィ」
あっちを向いたままのゼニガメが小さく鳴いた。・・・ふと、ゼニガメの言葉が、つまり賢太郎の言葉が理解できなかった事に気付いた。 人間の姿に戻ったら、どうやらポケモンの言葉も分からなくなるようだ。今まで自分以外のポケモンがいなかったから知りようが無かったが、 こうして賢太郎もポケモンになっていると言う事は、自分が思っているよりも色々な収穫があるように思えた。
なんて思っているよりも、まずは服を着る事の方が大事だった。さくらは急いで下着をつけ、服を着込んだ。ようやく全て着終えると、 息をつくようにソファーに座り込んだ。そういえば賢太郎は・・・そう思いさっきまでゼニガメがいたところを見たが・・・ いつの間にかゼニガメはいなくなっていた。
「・・・あれ、お母さん、賢太郎は?」
「奥の部屋に行ってもらったわ。・・・賢太郎君だって、見られたら嫌でしょ?」
「あ・・・うん、そう・・・だよね」
小さく頷いたさくらは、賢太郎がいる奥の部屋のドアを見た。その向こうで賢太郎は、自分の身体が戻るまでの間ぼうっと考え込んでいた。 ・・・ポケモンに変身するのが、自分だけじゃなかった。賢太郎にとっても、自分以外のポケモンに変身する人間に会ったのは初めてだし、 それが幼馴染であるさくらだったのだから驚きは倍になっていた。
すっと左手を目の前に掲げてみる。水色の柔らかそうな皮膚が窓から差し込む光を遮り、短い指の輪郭がまぶしく見えた。 血の気の感じられないその手。生き物であるから血が通ってない事は無いのだろうけど、鮮やかなライトブルーはまるで本当の水のように綺麗で、 透き通るようで・・・改めて、自分が人間じゃないことを思い知らされる感じだった。・・・勿論、 さっきまでフシギダネの姿だったさくらにしても同じだ。或いは、 植物と動物の中間である彼女の方がより強くそのことを感じているのかもしれない。
『・・・何が起きてるんだ・・・俺達に・・・?』
くしゃみをするとポケモンの姿に変身してしまい、しばらく時間が経つと元の人間の姿に戻る。それは賢太郎も同じ事だった。ふと、 かざしていた手の輪郭が少し膨らんだ事に気がついた。身体が戻り始めたんだ。ゼニガメは少し苦しそうな表情を浮かべると、 両手を地面に付いた。丸かった頭から短い髪がすうっと生え、鼻が高くなり、耳も形作られ輪郭が人の、賢太郎の物へと変化していく。 身体は徐々に大きくなっていき、硬かった甲羅は消えうせ、柔らかい人の肌があらわになる。・・・急激に身体が肥大していく感触は、 何度味わっても中々慣れないものだった。
「・・・ふぅっ・・・」
身体の変化が治まったことに気付いた賢太郎は、静かに自分の身体を確認する。・・・間違いなくいつもの自分の姿だった。 賢太郎の目の前には、さくらのお母さんが持ってきた服がある。と言っても、勿論賢太郎の服ではなく、さくらのお父さんの服だ。・・・ 一回り違うため、サイズは明らかにぶかぶかだったが、贅沢は言っていられない。慣れない手つきで大きな服を着込むと、 さくらのいる部屋に戻った。
「・・・よう」
「・・・うん」
「・・・さくらの母さんは?」
「暖かいコーヒー入れてくれるって。身体冷やしちゃまずいからって」
「・・・そうか」
賢太郎はゆっくりと自分が入ってきたドアを閉めた。そしてドアの前に立ったまま、さくらの方を見た。・・・そういえば、 彼女の普段着を久しぶりに見た気がする。最近はさくらが賢太郎の事を避けることが多く、中々普段会うことも少なかった。
「なんかさ・・・」
「・・・何?」
「・・・しばらく見ないうちに、女らしくなってない?」
「そうやっていつも、女の子を口説くの?」
「はぁ?してないって、そんなこと」
髪を少しかきながら、賢太郎はさくらの横に座った。ソファーが賢太郎の重みで静かに沈む。さっきベランダを大きく開けた部屋の中は、 ストーブは点いているものの、少しひんやりとした。だから余計に、2人の間を漂う空気も冷たかった。聞きたい事は互いにある。だけど、 上手く切り出せなかった。近くにいるのに、心の声は届くはずも無く。
「・・・女らしく、見えるの?」
先に切り出したのはさくらだった。切り出した、というよりはさっきの話を無理に繋げて会話を途切れないようにした感じも合った。けど、 さくらとしては賢太郎がどういった意図でこの言葉を言ったのか、少しだけ気にかかっていたのも事実だった。
「見えなきゃ、言わないだろ?」
「お世辞とか、男の子は女の子に言ってあげるものでしょ?」
「世辞ならもっと上手く言う」
「・・・まぁ、そうだよね」
互いに目はあわせなかった。さくらは少し下に、賢太郎は少し上に目線を向けながら、ポツリポツリと言葉を交わす。 呼吸の度に冷たい空気が肺に流れ込んで、新鮮な感じだった。
「・・・フシギダネの姿でも?」
「え?」
「私が・・・私の、フシギダネの姿も・・・女らしく見えた?」
「かわいいと思った」
「やっぱり、お世辞じゃない」
「だから、世辞ならもっとうまい言葉を使うって」
賢太郎は少し口調を強めながら、さくらの方に視線を下ろした。さくらは変わらずに俯いて下を見ていた。心なしか顔が赤くも見えたが、 丁度賢太郎自身の影が重なっていて表情が分かりづらかったし、フシギダネから戻ったばかりだから、 まだ身体が温まっているだけなのかもしれない。
「・・・世辞なら、こんなストレートな言葉を使わない」
「そう・・・」
「・・・なぁ、お前勘違いしているかもしれないけど、俺は別に・・・」
「いいよ、言わなくて」
「え?」
言葉を遮られた賢太郎は、言いかけた言葉を飲み込み、まだ視線を下に向けているさくらをじっと見つめていた。 静かな時間が少しだけ流れた。
「・・・私が怖がっているだけだから・・・」
「怖がるって・・・何を?」
「変わっていくこと。・・・時間が、全てを変えちゃうの。・・・何だか、幼馴染だったあの頃が・・・遠い記憶みたい」
「・・・何だよそれ」
「・・・え?」
今度はさくらが聞き返す番だった。ようやく視線を上げて横に見た賢太郎の顔は、もう少年だったあの頃の面影少なく、 凛々しさを何処かかもし出していた。・・・やっぱり、時間は動いている。
「勝手にさ・・・俺を過去の思い出みたいにするなよ。そんなの・・・お前自身のさじ加減次第の問題じゃないか」
「でも・・・怖いものは、怖いの。どうしようもない・・・」
「俺は別に、変わることを怖がるのをどうこう言ってるんじゃなくてさ。・・・だけど、過去から繋がる今この瞬間から、目をそむけて、 後ばかり見て、どうやって歩いていくんだよ」
わかっている、そんなこと。賢太郎に言われなくたって、さくらは理解している。 賢太郎が他の女の子と仲良くしているのを見て嫉妬心が芽生えたのは事実。そして、あの賢太郎があぁも社交的になった事や、 そんな彼に対して幼馴染以上の感情を抱き始めてしまった事も、事実。全ては、流れていく時間の中で生まれた変化。 自分の道を歩いてきたはずなのに、何一つ自分の思い通りに動かないもどかしさ。・・・汐見さくらと木之下賢太郎は幼馴染。 その響きが心地よくて、居心地が良かった。だから、それがゆっくりと壊れていく様を見ているのが、辛かった。
「・・・何となく分かった気がする」
「え?」
「・・・お前、フシギダネになっても、ずっとそんなことばかり考えてたんだろ?」
「・・・どうだろう。・・・慌しくて、よく覚えていないよ」
さくらは賢太郎の方から視線を再び下ろして、何も無い床を見た。・・・話題を変える意識も、腕も、賢太郎の方が少し上だった。
「・・・俺も初めてゼニガメになった時、どうしたらいいか分からなかった。でも、あぁ、 もう一生このままかもしれないってその内思えてきて、どうしたらいいか真剣に考えた・・・で、思ったんだ。 ゼニガメとして暮らしていけるだけ、この身体を使いこなせるようになろうって」
「それが・・・さっきの水を沢山吐き出したやつ?」
「うん。多分、みずでっぽうだと思う。・・・実際のポケモンと照らし合わせようが無いから、断言できないけど」
「ふぅん・・・」
さくらは小さく鼻で答えた。おそらく、ポケモンのわざか何かなのだろうが、ポケモンに詳しくないさくらには良く分からなかった。 確かに、小さなゼニガメの身体から、大量の水が吹き出る様はまさに水鉄砲と言う感じだったが。
「・・・さっきも言ったけどさ、さくらにも・・・フシギダネにも出来るはずなんだ。フシギダネのわざを使うことが」
「練習しろとでも言うの?」
「お前のためにはな」
自分のことは自分で守る。当たり前のことかもしれない。だけど、そのためにそれまでの自分とは違う自分になることは怖かった。 守るべき自分とは何をして自分なのか。人間であること?自分の将来のこと?・・・ さくらの目の前を答えたちが去来するような錯角さえ見えそうだったが、答えは一向にして出ない。
「・・・ポケモンになることをさ・・・怖いのは分かるけど・・・でも、事実として受け入れてさ、逆にそれが自分だって割り切らないと」
「私は・・・フシギダネじゃない。・・・汐見さくらでいたいの。今も昔も未来も、私でいたいの」
「フシギダネでも、お前が汐見さくらであることには違いないだろ?」
確かに、フシギダネの姿になっても、その心は汐見さくらの心のままだ。・・・だけど、だから辛いのだ。だからもどかしいのだ。 フシギダネの姿になったさくらが、さくらの心を持たなければこんなに切なく苦しい思いなんてしなくて済むのに。 身も心もポケモンになってしまえば、きっとわざだってためらい無く使えるだろう。だが、人間としての心が支配しているから、 自分が人間だという意識が強いから、ポケモンの姿に慣れていく自分は人間の自分から少しずつ離れていくような気がしてしまう。それが、 さくらの恐怖だった。
「・・・震えてるぞ」
「え・・・?」
「身体。・・・寒いのか?・・・それとも・・・」
「・・・寒くは無いよ、大丈夫・・・」
さっきベランダを開けた事で冷え切った室内はまだ肌寒くて、震えてもおかしくない状況だった。だけど、さくらの言葉通り、 さくらが震えたのは寒さじゃない。・・・ただ、漠然とした不安。それと、賢太郎の優しさだった。 何時から賢太郎はこんな気配りが出来る少年になったのだろうか。さっきまでだって、 さくらの気持ちを考えないようなデリカシーの無い言葉を並べていたのに。・・・いや、それが賢太郎なんだろう。さくらだって分かっている。 賢太郎がさくらに対して普段気を使わないのは、さくらに心を許しているから。・・・そしてさくらも。
「じゃあさ、こうしよ」
「え、ちょ、急に何!?」
賢太郎は不意にさくらの方にソファーを詰め、右腕をさくらの方に回し、そっと彼女の頭までを包み込むように、優しく抱きしめた。・・・ さくらは自分の胸が急に熱く、苦しくなるのを感じた。・・・だけど、これは変身の合図じゃない。・・・ある意味、 自分の心の中で何かが変化した合図だったかもしれないが。
「・・・賢太郎・・・!?」
「お前がさ・・・例えば寒いとか怖いとか・・・何でもいいけど、震えたらさ。こうやって抱きしめる」
「・・・賢太郎の身体、いつの間にか・・・大きくなったんだね。私をこんな風に・・・」
さくらを包み込むぐらいに。ずっと見てきていた。本当は賢太郎のことを避けている間にも賢太郎のことをずっと見てきていた。 だから気付かなかったのかもしれない。自分と余り背の変わらなかった彼は、少しずつ大きくなっている。・・・賢太郎もまた、 自分の腕の中にいるさくらの感触と体温を静かに確かめていた。そしてその指で彼女の髪をそっとなでる。・・・柔らかく、優しい香りが漂う。 改めて、さくらの成長を確かめていた。・・・確かに本人の望む望まないに関わらず、人は変わっていくものなのかもしれない。
「・・・お前さ、俺以外にポケモンに変身する人間は・・・会ってないんだろ?」
「うん・・・」
「俺も会ったこと無い。・・・ってことはつまり、今のところ世界で俺達2人だけって事だよな。変身する人間は」
「そうだ・・・ね、うん」
「・・・変身することへの互いの喜びも悲しみも、理解できるのは俺達互いだけって事だよな」
もう一度、賢太郎の指が優しくそっとさくらの頭をなでた。言う通り、ポケモンに変身してしまうその気持ちは、 2人の知る限り2人にしか分かりえないものだ。数多くの人が住むこの星で、目の前にいる相手たった1人だけが、 自分の孤独を共有する相手なのだ。
「・・・だからさ。無理はしなくてもいいけどさ・・・少しだけ・・・俺と一歩前に・・・進んでみないか?」
「フシギダネとして?」
「汐見さくらとして」
「・・・幼馴染として?」
「1人の・・・女として」
そう言った賢太郎の顔が少し赤らんでいた。さくらは少し俯いてしばらく考える様子だったが、その後静かに言葉なく小さく頷いた。・・・ 変わっていくことはやっぱり怖い。だけど、賢太郎が傍にいてくれるなら、少しだけ勇気を分けてもらえそうな気がした。この世界でただ1人、 自分と運命を共有している人だから。
そして2人は、自分たちの鼓動が更に高まっていくのを感じていた。ぴったり寄り添う二人には、 もう互いの呼吸と鼓動の音しか聞こえなくて。感じるのは互いの体温だけで。帯びる熱が逃げるのを惜しむかのように、 賢太郎はより強くさくらを抱きしめる。さくらは、ゆっくりと顔を上げた。1人の男が頬を赤く染めて、じっとさくらのことを見つめている。・・ ・もう言葉は要らない。後は肌で感じればいい。二人の願いは重なった。やがて静かに、互いの顔を近づけていく。そっと、じらすように。
・・・で、後悔する。ぱっとキスしてれば良かったのにって。寒い室内。熱を帯びた体。・・・待っているのは、お約束。
「ァフ・・・ッアクシュンッ!」
「ハゥ・・・ゥシュッ!」
2人は重なりかけた顔を慌てて背け、相手にくしゃみがかからないようにした。そして急いで互いの姿を見た。・・・ 2人とも可笑しい様な恥ずかしいような、微妙な表情をしていたが、その顔もすぐに変わっていった。
さくらの手足はすぐに短くなり、口は大きく横に裂ける。柔らかなソファーの上にバランスを保つように4足で身体を支えると、 折角着たばかりの服を破って、植物がにょきっと生えて姿を現した。賢太郎もその手足が短くなっていき、 顔を含め全身が水色の皮膚に変色していく。頭からは髪の毛がいつの間にか消えてなくなり、 腹と背の皮膚は徐々に硬い質で覆われていき甲羅を形作り、その下からは丸く柔らかな尻尾が姿を現した。
「・・・ダネェ・・・」
「ゼニィ・・・」
そして2人・・・だった2匹は改めて互いの姿を確認した。さくらの前にはゼニガメが、賢太郎の前にはフシギダネがいる。 折角着たばかりの服を中途半端に纏いながら。
『・・・変身、怖かった?』
『・・・いつもよりも、怖くなかった。・・・心細くなかったよ』
それはきっとそばにあなたがいるから。弱く小さなこの姿だけど、ただ1人あなただけは変わり果てた私の姿を認め、 言葉を理解できるから。・・・さくらはこの瞬間確信したのかもしれない。2人はもう・・・ただの幼馴染じゃいられないことを。それは、 とても心地のいい寂しさだった。・・・望んでも望まなくても全ては変わっていき、今は過去になっていく。思い出になっていくこの瞬間を、 忘れない。流れる時間の全てとの別れを惜しむ暇は若い2人には無いから、だからもう一度そっと顔を近づける。姿の違いなんて、 もう意味が無かったから。
そして、2匹の唇は、静かに重なった。目はつぶっているのに、相手の姿が目に浮かんだ。どんな想いで今こうしているのだろう。 それは流石に分からないが、だけど一つだけ確かなことがある。2匹にもう、迷いも戸惑いも恥じらいも無かった。ただ素直に、 自分の感情を重ねるだけだった。
『お気に入りの服だったのにな』
唇を離したさくらは、少し寂しそうにお母さんが折角持ってきてくれたのに破ってしまった服の切れ端を見てそう呟いた。
『でも、服なら替わりのもの買えばいいだろ?・・・なんだったら今度、一緒に買いに行かないか?』
『・・・それってデート?』
『さぁね。・・・お前の気分次第だと思うけど?』
ゼニガメは照れくさそうな表情を浮かべて、フシギダネから視線をそらしてそう呟いた。フシギダネは口元を緩ませると、 短い4本の足をめいっぱい伸ばして、ゼニガメに寄り添ってきた。ただ身体を触れるだけで、とても心地よかった。・・・丁度その時、 部屋にお母さんが2人分のコーヒーを持ってきてくれた・・・けど。
「2人ともまた変身しちゃったの!?」
「・・・ダネェ・・・」
「ゼニィ・・・」
呆れた表情を浮かべるお母さんの前で、2匹のポケモンはただ苦笑いをしながら頭をうな垂れることしか出来なかった。 折角の暖かなコーヒーを飲むことが出来るのは、もう数分お預けだった。だけど、もうすっかり身体が、そして心が温まった2匹には、 コーヒーはもう必要なかった。改めて2匹は互いを見つめあい、静かに笑った。互いの笑顔が、何よりの温もりだった。
そう、どんなに拒んでも、時間は必ず流れていく。時間の流れは必ず変化を生んでいく。 その変化が自分にとって望ましい変化かどうかは変化が訪れなければ分からない。だからといって何も望まなければ、 ますます自分の世界が狭まってしまう。だから怖がらずに少しずつでもいいから、自らの手で自らを変えていけば、 少しでも望んだ変化に近づけるはず。2人の幼馴染は、2匹のポケモンへの変化がきっかけで、それ以上の関係に今歩み始めた。 少しずつ変わり続ける時代の中で、不変の何かを手に入れるために歩き始めたのだ。小さな変化が、小さな変化を呼んだ瞬間だった。
だけど、時にはほんの小さな変化が、世界を巻き込む大きな変化と大きな混乱を巻き起こす事だってある。望むとか望まないとか、 そういう意志の問題を超越して、全てを飲み込んでしまう変化が訪れるのだけれど、それはもう少しだけ先の話。
トランスフルパニック! 第3話「2人の体温」 完
第4話へ続く