聖都のキマイラ #1-3
【人間→獣】
「さぁ、ウィル!そろそろ起きて!」
「ん・・・ディアか・・・?」
狭いテントの中で響いたのは、少し強い口調の少女の声。俺は横になっている身体をゆっくりと起こして、一度グッと背筋を伸ばした。 全身に血が巡っていくのをしっかりと感じ取る。この身体の熱が滾っているような感覚は好きだった。 俺は自分の目がはっきりと覚めて体の感覚がしっかりした事を確認すると、ゆっくりと立ち上がりテントの外に出た。 すぐに視線に飛び込んできたのは、見慣れた幼馴染、ディアの姿だった。
「起きてくるまで遅いよ!らしくない!」
「悪い悪い」
そう言って俺は、いつものようにディアの頭にぽんと手を置いた。俺がディアをなだめたり慰めたり、 落ち着かせたりするときに自然とする行動だ。その様子を見ていた、遺跡ハンターのダイアナは少し笑みを浮かべながら話しかけてきた。
「本当に仲がいいのね、貴方たちって」
「・・・まぁ、”幼馴染”ですから。私とウィルは」
俺が言葉を言おうとする前に、ディアが幼馴染を強調してそう答えた。そしてすぐに身の回りの片づけを始める。 俺も一つ小さくため息をつくと、それを手伝った。俺達4人はそれぞれで役割を決めて、すぐにケンダリ遺跡に向かう準備を整える。 お互いプロなだけあって、こういったところは全員手際がいい。レジャー気分のキャンプのようにゴチャゴチャと散らかった荷物などを、 一瞬にして片付けた。
そして改めて俺達は4人並んで遺跡のほうを見る。まだあたりは暗いが、東の方の地平線が、かすかに眩いている。夜の闇を晴らすために、 太陽が今昇る。
「さて・・・行くか」
俺の言葉に合わせて、他の3人も頷く。俺達はそうしてゆっくりと遺跡に向かって歩き始める。辺りに邪気が立ちこめ、 何時魔獣が襲ってきてもおかしくない危険な状況の中で、俺達は周囲を警戒しながら慎重に進んでいく。・・・が、 いつもなら向かってくるはずの魔獣が襲ってこない。
「俺達に怯えている・・・ってわけじゃなさそうだが・・・」
「・・・ケルベロスか何かが・・・攻撃するなとでも指示してるのかしら?」
「温存しておいて・・・おびき出した上で総攻撃・・・ありえるかも」
「ぁー、結局遺跡行く、答えのソレが変ワラナイ。マダ、20分ト5分から7分の間、必要トサレル。マイペース!」
「・・・まぁ、そうだな」
俺は周囲への警戒を気にしつつ、テツの方をチラッと見た。・・・昨日テツが言った言葉が頭をよぎる。俺の精霊は炎のファース。そして、 これから向かうケンダリ遺跡にいるとされるのが、炎の魔獣ケルベロス。・・・テツは昨日、俺にそのことを指摘してきた。 テツの本意は分からない。・・・だが、この調査が俺にとっても重要な試練になるであろうことは、虫の知らせのようなもので感じていた。・・・ 多分、ただじゃ終わらないだろう。もしケルベロスと戦うことになったら・・・同じ炎同士、強い炎が弱い炎を飲み込むだろう。・・・ 俺がケルベロスの炎を飲み込んだら・・・逆にケルベロスが俺の炎を飲み込んだら・・・どちらにしても、何かが起きる。そんな気がした。
「・・・どうしたの、ウィル?」
「え?」
よほど深刻そうな表情をしてしまったのか、ディアが俺の顔を覗き込むようにして声をかけてきた。俺は一つ咳払いをして、 ケンダリ遺跡の、その向こう側を見るような遠い目をしてディアに答えた。
「・・・別に、なんでもないさ。・・・少し、気を引き締めただけだ」
「ならいいんだけど・・・もし、ケルベロスと戦うことになったらさ、私に戦い任せてもいいからね。氷の私なら、相性良いし」
「でも、それだって諸刃だろ?炎が勢いついたら、氷なんて一気に溶かされちまう」
「でも、炎同士ぶつけ合うよりかは有効だと思うけど」
「さすが魔獣ハンター、ケルベロス狩りの相談とはね。でも、あくまで調査なんだから、戦うとは限らないわよ?」
俺達の会話に割り込むように、ダイアナがそう突っ込みを入れた。・・・そう、あくまで遺跡の調査。 今頻発している魔獣の発生と遺跡との関係有無の調査。なにもケルベロスと戦う必要性は無い。・・・しかし戦わずに済む保証も無い。 用心するには超した事は無いだろう。
「何事も、最高のシチュエーションと最悪のシチュエーションを考えて行動しないと、 いざって時にチャンスを逃したりピンチを切り抜けなかったりするからね。そのためのシミュレーションさ」
「なるほど・・・流石に場数は踏んでるわね」
ダイアナは感心したようにそう呟いた。・・・そう、経験は積んできている。その定規に合わせて、 自分の身の丈に有った行動をすれば良い。そうすれば、判断を間違う事なんて無い。俺は心の中でそう自分に言い聞かせた。 少し大袈裟なくらいで自己暗示をかけないと、雰囲気に飲み込まれそうになる。・・・或いは緊張しているのかもしれない。今までだって、 確かに死線を幾つか乗り越えてきたが、伝説にもなっている魔獣を相手にしたことは無い。・・・もし相手にするとしたら・・・勝てるだろうか? ・・・いや、勝負の勝ち負けじゃなくだ。・・・そう、判断を間違わなければ俺の勝ち。間違えれば負け。・・・実に単純な事だ。
「・・・少し歩くペースが早かったかしら・・・?」
不意にダイアナはそう呟いて、上を見上げた。・・・気付けば既に遺跡の近くまでたどり着いていた。いざ近くによって見ると・・・ 漂う気配はより一層濃くなっている。・・・確かに何か大きな力が眠っている。そういう印象を強く受けた。それがケルベロスなのか、 或いは別の何かなのか・・・俺は一つ息を飲み、小さく拳を握った。
「ダイアナ・・・遺跡に関しての予備知識、持ってるよな?」
「えぇ、前からは勿論、今回のために近年の研究結果も頭に入れてきたわ」
「歩きながらで良い。教えてくれないか」
「いいわよ。・・・別に中に罠があるわけじゃないから、早速行きましょう。魔獣なら、気配で対応できるもの」
俺は頷き、そして4人でゆっくりと遺跡の中へと足を運んだ。その中でダイアナはケンダリ遺跡について俺達に語ってくれた。
詳しい建造時期は不明だが、聖都エスパーダが出来る以前からこの地に存在した遺跡だということから、 相当古い文明の遺産だということが分かる。神を祭るために作り上げたのは周知の事実だが、 一体何の神を祭っていたのかは定かにはなっていない。そもそも、余りこの大陸には唯一神を信仰する傾向は無く、 八百万の神とでも言えばいいだろうか、数多の神が存在すると考えられてきたため、何か一つの神を崇める思想は根付いてはいないはずだった。 にもかかわらず、こういったものがあることは、今の自分たちが知らない民族がこの地に存在していた可能性が高いということだ。
ケルベロスの神話が生まれたのは、この地から犬をかたどった土人形や犬の壁画が見つかったこと、 また古くからこの近くに住む原住民に語り継がれる魔獣ケルベロスの話が、古くこの地を開拓した人々によってこの大陸に広められたものだ。 その姿は三つ首の化け物とも、犬の体に蛇の尻尾を持つ合成獣のようとも言われている。・・・しかし当然口頭でしか語り継がれていないため、 真実の姿も、本当に実在するのかどうかさえ不明のままだった。ただ、そういった伝承が残っている事や過去の記録や文献などから、 この地に非常に強力なイヌ科の魔獣がいたということは、学者の間では定説になっており、それをみなケルベロスと呼んでいる。
「・・・でも、ここ最近の魔獣の活性化によって・・・ここケンダリ遺跡のケルベロスが・・・いえ、 こういった魔獣にかかわりを持つ同様の遺跡もそう・・・必ず魔獣が凶暴化したその近くにはこういった遺跡が有るの。だから・・・」
「封印されていたケルベロスの魔力が強くなり、辺りに影響を及ぼしている・・・という可能性か」
「可能性でしかないけどね」
ダイアナは念を押すように、俺の言葉にそう言い返した。・・・そう、確証なんて何一つ無い。むしろ、 それを調べにきたのが俺達なのだから。
「・・・それにしても、いくらなんでも魔獣が出なさ過ぎるわ」
「確かに・・・気配は感じるのに・・・」
ダイアナの言葉に、俺も共感を覚えた。遺跡に入ってからしばらくたつが、まるで魔獣が現れない。事前の話では、 魔獣が沢山出るからダイアナだけでは危険ということで、俺達が呼ばれたはずなのに。
「俺達のことを・・・避けているのか・・・?」
「まさか・・・?」
おびき寄せて襲う、それが相手の罠だとしても、あまりに仕掛けてこなさすぎる。そこまで遺跡の奥に導きたいのだろうか?
「・・・この先は・・・祭殿になっていて開けているわ。・・・発掘されている限りでは、そこが行き止まり」
ダイアナは辺りの遺跡の状態を見ながら、そう俺達に教えてくれた。
「行き止まりってことは・・・もう何も無いの?・・・ケルベロスは?」
ディアはダイアナのほうを振り返って問いかけた。・・・確かに、もしそこに何も無ければ、今回の調査そのものが無駄足だった事になる。
「・・・魔獣が酷くなる前に訪れていた調査団が、おおよその事は調べてしまっているわ。・・・もう、何も無いはずだけど・・・だけど、 何も無いのはいずれにしても分かっていた事だし、調べる事はまだ有るわ。だから、安心して護衛して頂戴ね」
「何か、”安心して”の使い方が違う気がする・・・」
そのディアの言葉を聞くと、ダイアナとディアは笑い声を上げた。つられて俺も思わず笑ってしまい、 俺達3人の笑い声が遺跡の細い廊下に響き渡った。
・・・3人?
「・・・いない・・・!?」
「え・・・?」
「テツがついてきていない・・・!」
「嘘・・・!?」
「一本道よ。・・・何処ではぐれたのかしら・・・!?」
俺達3人は来た道を振り返った。しかしテツはおろか、人間の気配すら感じない。・・・本当にいつはぐれたんだろうか?
「・・・探した方がいいかしら?」
「いや・・・いい。3人でいこう」
「でも・・・」
「テツの心配は要らないし、ダイアナは俺達2人で十分守ってみせるさ。・・・どうせすぐに追いつくだろう」
「・・・そうね・・・ならいいけど・・・」
本当なら、戻ってテツを探すべきだろう。守ってみせると入ったものの、やはり2人より3人で守った方がいいのは確かだ。しかし、 今仮にも俺達は敵の手の内にいるも同然だ。下手な行動を起こせば何時命取りになるか分からない。・・・それに、個人的には昨日の事も有って、 テツとは少し距離も起きたいのが事実だった。
「行こう、すぐなんだろ?その祭殿まで」
「え、えぇ・・・分かったわ。行きましょう」
そういうと俺達は再び廊下を進んだ。しばらくすると、急に開けた場所へと出た。・・・ ここだけで聖都の神殿ぐらいの広さはあるだろうか。大きい遺跡だとは思っていたがまさか中にこんな空洞があったなんて。
「・・・記録と一致してるわ・・・ここで間違いなさそうね。・・・それじゃあ私は色々調べるわ。貴方たちはあたりに警戒しつつ・・・ 見物しててもいいわ」
ダイアナはそういうと、かばんの中から本やらレンズやらよく分からない液体やら、兎に角色々と取り出し始めた。 俺とディアは顔を見合わせて一つ息をつくと、この広い祭殿を見渡した。そして一息つくと、俺はディアの方を振り向いて声をかけた。
「とりあえず、一回りして様子を見てくる。・・・悪いけどディアはダイアナの傍にいてやってくれ」
「わかった。気をつけてね」
「わかってる。俺を誰だと思って」
「はいはい、いいからいいから」
ディアは手で俺を払い除けるかのようにその手を振るった。俺は少し笑みを浮かべながら2人を背にして祭壇の奥へと歩み出た。・・・ いざ歩いてみると、その広さを改めて実感する。今の建築技術だって、これだけの建物を作るのに相当な技術と費用がかかるだろうに、 古代の人々は恐らく現代よりも低い水準の技術でこれらを建築したのだ。頭が下がる思いだった。
俺は感心しながら、ゆっくりと祭殿を進んでいく。・・・しかしその時不意に何か背筋が凍るような・・・いや、違った。 背筋が熱くなるような奇妙な感覚を覚えたのだ。俺はそれに気付き振り返ろうとした・・・が、その瞬間だった。
『動かないで』
突然俺の頭の中で、誰かの声が聞こえた。・・・そう、耳が、鼓膜が捉えた音じゃない、間違いなく直接俺の頭の中でその声は響いたんだ。 俺は慌てながらも、その声に従い動きを止めた。・・・この状況はただ事じゃない。下手な手を打っておかしなことになってはまずいと思い、 ひとまず声に従い冷静になる事に努めた。そして声を細めて、姿の見えない相手に問いかけた。
「・・・お前は・・・誰だ・・・!?」
『僕は・・・ケルベロス』
「ッ・・・お前が・・・!?」
声が名乗ったその名・・・それは俺達が求めていたものの名・・・ケルベロス。確かにここにはケルベロスを名乗るものが存在したが、 しかしなら何故、俺に声をかけてきたのか・・・?
『・・・何故自分にコンタクトしてきたのか疑問って顔してるね』
「・・・当たり前だ。お前に声をかけられる心当たりが無い・・・」
『僕には有る。・・・長い間、この時を待っていたのだから』
「魔獣を生み出して・・・人々を傷つけてか・・・!?」
『・・・そうだね・・・不本意とはいえ・・・僕は大変な罪を犯してしまった・・・』
・・・不本意・・・罪・・・?俺はケルベロスが低いトーンで、どこか悲しそうな声でそう語った言葉が耳に残った。・・・ 魔獣が凶暴化する現象がケルベロスの仕業である事実を告白してはいるものの、 それはまるで自分が望んで起こした出来事ではないような口ぶりだった。単純な言葉だけじゃなく、その雰囲気も・・・そもそも、 語り継がれるような凶暴な魔獣が、こんな穏やかな口調で話すだろうか・・・?俺は緊張が張り詰めた状況のまま、 しかし姿の見えないケルベロスの物静かさに、描いていたイメージとのギャップから、少し拍子が抜けてもいた。
「・・・まるで・・・お前はこんな事を望んでいなかったみたいな口ぶりだな・・・伝説にもなった魔獣のくせに・・・」
『そうだね・・・魔獣らしくない発言だけど・・・当然だよ。僕は・・・魔獣じゃない』
「魔獣じゃ・・・ない?・・・どういうことだ・・・!?」
『僕は・・・聖獣・・・聖獣ケルベロスだ』
声がそう告げると、突然俺の周りを火柱が囲み始めた。慌てて逃げ出そうとしたが、すぐに俺は取り囲まれてしまい、逃げ場を失った。 場の異変に気付いたディアとダイアナがすぐに俺に駆け寄ろうとしたが、間もなく俺の姿は彼女たちから見えなくなっただろう。
「何だこれは!?・・・俺を・・・どうする気だ・・・!」
『君をずっと待っていたんだ。僕の欠片を・・・持つ君が』
「・・・欠片・・・ケルベロスの・・・!?」
『そう・・・出ておいで。僕の欠片・・・』
ケルベロスの声が炎の中でそう響くと、急に俺の右腕が燃え上がった。・・・そう、それは俺の相棒、炎の精霊であるファースだった。 初めは炎の姿だったが、すぐに小型の赤いドラゴンの姿へと変わっていった。
「・・・ファースが・・・ケルベロスの欠片・・・!?」
そしてふと、俺はテツが昨日言った言葉を思い出した。
”強い炎と強い炎、重なる。ソレ・・・最も上の強い炎。”
ケルベロスと・・・ファース。力の源とその欠片・・・それが元あるべき場所に帰れば・・・失われた形を取り戻す。・・・ ケルベロスの力が、甦る。
「ファース・・・お前・・・!」
「・・・フィー・・・」
小さな赤い竜は、俺の腕の上で寂しそうに、そしてどこか申し訳無さそうに小さく鳴いた。・・・今まで長くファースと付き合ってきたが、 こんな表情のファースを見るのは初めてだった。
『君がファースと呼ぶその炎は、僕の力の欠片。・・・その目的は、炎を宿す器を探すため・・・君を、探すためだった』
「器・・・俺が・・・!?」
『説明している暇は無いんだ・・・申し訳ないけど、君の身体を貰う・・・やれ』
ケルベロスの声が再び炎の中で響き渡る。その瞬間、俺の腕にいたファースが、その姿を崩し再び炎の姿に戻ったかと思うと、 そのまま俺の身体に広く燃え広がっていった。
「アゥッ・・・ファー・・・ス・・・何を・・・!?」
俺の身体は見る間に全身炎で包まれる。・・・熱いという感情よりも、驚きの方が勝っていた。ファースが・・・ 俺の意思を無視して行動を起こした。誰よりも・・・ある意味ディアよりも信頼しているつもりだったのに・・・裏切られたような気がした。 炎の中で俺は、身体の形が変わっていく感覚に気がついた。・・・体が燃え尽きていくのかもしれない。・・・それもいいかもしれないな、 ファースに・・・包まれながら最期を迎えるのも・・・悪くはない。そう思った瞬間、俺の周りを取り囲んでいたケルベロスの炎も、 俺の身体に収束し、ファースの炎と相まって激しく燃え上がった。・・・その時、また声が聞こえた。・・・ だけどそれはケルベロスの声じゃなかった。
『ゴメン・・・だけど・・・僕が守るから・・・!』
今まで聞いたことの無い声、なのに何処か懐かしさと温かさを感じる不思議な声。誰だろう。考えようとするけど、もう、 考える力も残っていない。ただ、自分という存在が消えていくような不安だけが俺の心を包んでいた。
やがて、俺の身体の炎はゆっくり終息し、俺の身体はどさっと地面に叩きつけられた。・・・身体の自由が利かない。目も、耳も、鼻も、 あらゆる感覚が遠ざかっていく。ディアが駆け寄ってきた。何かを叫んでいる。・・・何と叫んでいるのかもう分からない。・・・結局俺は、 あれだけお前に注意されていたのに、油断して最期を迎えちまったな。本当にすまない。・・・そう謝りたくても、 それさえ今の俺には出来なくて。ただ熱を帯びた自分の身体と、冷たい遺跡の地面との温度差を感じながら、あらゆる感覚を放棄した。あぁ、 これで俺は終わるんだ。そう思いながら俺の意識は途絶えた。
だけど。
俺は終わっていなかった。
ふと気付いたのは自分が呼吸をしているという事実。意識を失ってから取り戻すまでどれだけ時間がたったのだろう? そもそも俺は死ななかったのだろうか?あれだけ炎に焼かれながら、俺は生きているのか・・・? 俺はまだ回り始めていない頭でゆっくりと考え始める。・・・時間がたつにつれ、徐々に感覚が回復していく。まぶたは・・・ 重くて開く事が出来なかったが・・・やがて匂いで気付いた。ここは俺達が泊まっている、聖都エスパーダの宿のベッドの上だということに。
・・・匂いで?俺は何故匂いでそんなことが分かるんだ?この宿屋に特別特徴的な匂いなんて無いはずなのに。目もまだ開いていないし、 音も聞き取りづらいのに、何故真っ先に匂いだけは分かったんだ・・・?俺は漠然とした不安を抱えながらも他の感覚が回復するのを待った。・・ ・その時不意に上から声をかけられた。
『・・・よかった!目が・・・覚めたんだね・・・!』
・・・どこかで聞いたことあるような声。少年のような優しい声。何処で聞いたんだったっけか・・・あぁ、 俺がファースの炎に焼かれた時に一瞬聞こえたあの声か・・・それが何故今ここで聞こえるんだ・・・?俺は状況がまるで飲み込めずに、 それでも何とか把握するためにようやくゆっくりと瞳を開いた。・・・真っ先に飛び込んできたのは・・・見慣れた赤い鱗だった。
そう、ファースの姿。ファースがいつものドラゴンの姿で俺の目の前にいたんだ。 そして俺に向かって何か鳴き声を上げようと大きく口を開いた・・・次の瞬間だった。
『僕、ずっと心配してたんだからね!・・・僕のせいとはいえ・・・2日も目が覚めないなんて・・・!』
・・・待ってくれ。
・・・何が起きている?
・・・ファースが、喋ったのか?
俺があっけに取られている間も、ファースは嬉しそうな表情と申し訳無さそうな表情が入り乱れた複雑な表情で、俺の顔を覗き込んでいた。 ・・・すると今度はその横からすぅっと氷が浮かび上がったかと思うと、パァンとはじけて白い毛を持つドラゴンの姿へと変わった。 ディアのパートナーであるリーズだ。・・・そして、リーズもまた小さく、ファースに比べてどこか品のある小さな開き方で声を出した。
『ファース、嬉しいのは分かりますけど、マスター・トライはまだ自分に何が起きたのかわかってらっしゃらないのよ』
『・・・そうだよね・・・僕達が急に喋ったりして、驚いてるんだよね・・・』
・・・まさにその通りだ。何が起きているのかさっぱり理解できない。何故ファースもリーズも喋っているんだ?何故俺は生きているんだ? あれから俺は・・・どうなったんだ・・・?
『リーズ。・・・君の氷で、鏡を作れる?ウィルを鏡の前に運ぶのは、僕じゃ無理だ』
『えぇ、勿論』
そういうとリーズの身体から小さな氷の破片が噴出した。そしてそれが徐々に薄い氷の幕を俺が横たわっているベッドの横に作っていく。 それが俺の目線まで届いた時・・・ファースの言葉通り鏡のように周りの光景が映し出されていた。・・・だがそれを見て俺は愕然とした。 そこにあるはずのものが映っていないのだ。そう、俺の姿がそこには無かった。
『な・・・何だよ、これ・・・!?』
俺は氷の鏡に映った自分の姿を見てそう言ったつもりだった。・・・事実俺の耳にはそうも聞こえた。けど・・・同時に違う声も聞こえた。
「ウォ・・・グォウ、ガルゥ・・・!?」
それは獣の鳴き声。それが間違いなく俺の喉から漏れたのだ。俺ははっとして手を自分の口元へと運んだ。・・・ それを手と呼んでいいのかは問題だが。当然、鏡の中の俺も同じように映る。・・・それを見れば見るほど、 俺という存在を否定されているような気分に陥った。
そこに映っていたのは、全身黒い毛で覆われ、前後両足4足の足先と、顔の一部、そして尻尾の一部が赤い毛で覆われた犬の姿だったから。 そいつが横になったまま、ピンと尖った耳をピクピクさせて、金色の丸い瞳を驚きで更に丸くして、大きく開いた口から鋭い牙を尖らせて、 それを覆うように前足を口元に当てている。・・・俺が取っているポーズと同じだ。・・・そして残念な事に・・・俺が動けば、 鏡の中の犬も全く同じ動きをする。
「グォゥ・・・」
・・・否定しようが無い。俺は・・・犬になってしまったんだ。それ以外の結論を導きようが無い。俺は何処か絶望にも似たような、 心に空虚を感じながらぼうっと鏡の中の犬を見つめ続けていた。
聖都のキマイラ #1-3 完
#1-4に続く