ミリィの光 第4話「ミリィからの伝言」
【人→獣】
※「タイトルが先だ!文学賞」 応募作品・原題「猫がくわえてきた奇跡-彼女が猫になっちゃった!-」
その日、達哉が帰ってきたのは夕方だった。玄関のドアを開いた時点で、美奈の目に飛び込んできたのは、 はっきりと成果が無かったというオーラを漂わせた達哉の姿だった。
「ただいまぁ…」
声のトーンも暗い。美奈はそんな達哉を見上げると慰めるように一声鳴く。
「ミャァウ」
「美奈…やっぱあんまり効果がありそうななもの見つからなかったわ…」
そう言っていつものように美奈の身体を両手で優しく持ち上げる。そしてそれもいつものように自分の鼻と美奈の鼻をくっつけ合わせる。 そして小声で呟く。
「…お前を元に戻す方法…色々考えたり調べたりしたけど…」
「ミャァウ」
美奈は達哉の呟きを遮るように鳴き声を上げた。本人としては、 さっきテレビで見た海岸が人間に戻るヒントになっているかもしれない事を伝えたかったけれど、 当然猫の声じゃ何を意図しているのかさえ伝わらない。達哉は少し無言で間をおいた後、言葉を続けた。
「…でも、必ず、俺が…戻る方法、見つけるから…」
達哉はそう呟いたまま、また間をおいて動きを止める。 何時までも抱き上げられたままで美奈は少し苦しかったので声にすらならない音を喉で小さく上げたが、達哉は下ろそうとしない。その目は、 どこか虚ろだ。疲れているのか…と美奈が思った瞬間だった。
達哉は突然自分の顔の角度を変え、鼻ではなく互いの唇同士を重ね合わせた。達哉と美奈の唇が触れ合うそれは、 美奈にとって初めてだった。美奈はあまりに突然の出来事に何が起きたか一瞬把握できず、呆然と身体を固まらせてしまったが、 すぐに猫の姿とはいえ自分の大切なものが奪われた事に気づくと、爪を立て達哉の手の中で激しく暴れた。 達哉はそれに耐え切れず思わず美奈を手放してしまうが、美奈は空中で器用に身体を翻し見事に着地に成功した。
「美奈、大丈夫か!?」
達哉は慌てて美奈に駆け寄ろうとしたが、美奈は全身の毛を逆立てるようにして、まるで相手を威嚇するように激しい声を上げて、 爪も立てて達哉の方をにらみつけた。
「…いや、おとぎ話だと、ほら、呪いってキスで解けること多いだろ?だから…うん…ごめん…」
達哉は申し訳無さそうに頭を下げた。その様子を見て美奈は徐々に怒りのトーンを落としていき、 数秒後には心も落ち着きを何とか取り戻していた。ただ、胸の鼓動はまだ止まっていなかったが。
「悪い…疲れてたんだと思う…ゴメン…」
達哉は再びそう謝りながら部屋の中へと入ってきた。そしてそのまま座り込み、一つ大きくため息をした。 確かにその表情には疲れの色が見える。しかし美奈は何とか昼の事を達哉に伝えなければならないと思い、だるそうな彼の前まで歩いていき、 言葉が伝わらないと分かっていながらも訴え始める。
「ミャオ!ニャゥ、ミャァウ!」
「美奈…悪いけど少し静かに…」
「ミギャ!ミャォウ!ミャ、ニャァン!」
「…何だよ、そんなに鳴いて…」
「ニャ、ニャオ!ミャァオ!」
「ダメだ…ダメだよ美奈…分からないよ…一体何だっていうんだよ…」
達哉は疲れた表情の上に、更に困惑まで混じった表情で美奈を見ていた。一方の美奈は海のことを気づいて欲しい一心で鳴き続けたが、 とうとう疲れてしまい、四本の足を投げ出すように寝そべってしまう。今までは、風呂や食事、或いはテレビなど、 何かを達哉にして欲しいという簡単な要求だったから簡単に通じたけれど、今回みたいに何処かへ連れて行ってほしいという、 具体的過ぎる要求はとても伝わりそうに無かった。
「…せめて喋れればいいんだけどな…」
達哉は美奈を見てそう呟いた。しかし猫が喋るなんて到底無理な話。達哉も過去に何度かミリィが喋れればいいのにと思ったことがあった。 ミリィの気持ちが分かれば、もっと近づけたはずなのにと。あの川の出来事ももしかすると起こらなかったかもしれないと。ふとその時、 達哉の携帯電話が鳴り響いた。手に取ってみてみると、メールが届いていた。遊びに行かないかと誘う内容で友人が出したものだった。 勿論今の達哉に何処かへ遊びに行くつもりは無かったから、断りの返事を返そうとした時、 ふと携帯で文字を入力しながら達哉の脳裏に一つのひらめきがよぎった。
「そうだ…メール…これだ!」
「ミャ、ミャァウ?」
「よく漫画であるだろう、ほら!…なんで早く思いつかなかったんだ!…待ってろ、すぐ準備するから」
そう言って達哉は急に紙とペンを持ち出し何かを書き始めた。見ると、五十音を順番に書いていってる。 それを見て美奈は達哉が何を思いついたのか理解した。すぐに美奈の目の前には五十音の一覧が出来上がった。
「これで、言いたい言葉の文字を前足で指してくれれば、美奈の言いたい事も解るな」
美奈はゆっくり頷く。そして達哉は一息つくと、美奈に問いかけて来る。
「じゃあ、一応試しに聞くけど…お前の名前は?」
美奈はそれを聞いて紙の上をゆっくりと歩き文字を前足で指していく。
“み・な”
「ミャァウ」
二つの文字を順に指した後に一鳴きした。文字を選び終えた合図。
「じゃあ、俺の名前は?」
“た・つ・や”
「ミャァウ」
達哉は無言で頷いた。人間の言葉を理解している、人間が変身した猫だからこそ出来るコミュニケーション。 達哉と美奈は意思の疎通方法を見つけたことで、喜びが表情ににじみ出ていたが、すぐに気を取り直すと、本題へと移る。
「じゃあ…さっきは何を言いたかったんだ?」
達哉の質問を聞き、美奈は再び紙の上を歩き出す。
“う・み・に・い・き・た・い”
「ミャァウ」
「海に行きたい…?どこの?」
達哉の更なる質問に美奈はテレビで見たあの砂浜の名前を指した。
「あそこか…まぁ、行こうと思って行けないことは無いけど…でも何でまた急に?」
すると美奈は、少し間をおいた後、猫の顔でも判るぐらい真剣な表情で紙の上を歩いてまわる。
“み・り・い・か・゛・よ・ん・て・゛・い・る”
「ミリィが呼んでいる…!?」
美奈が合図として鳴き声をあげる前に、達哉は驚きの表情と共にそう口走っていた。ミリィ。その名を聞いただけで、 あの日のことが悔恨の念と共に頭の中でフラッシュバックする。そのミリィが、呼んでいるというのだ。
「何で…!?」
達哉はそう言葉を漏らしてから、しばらく静かに固まってしまった。その様子を美奈は少しの間じっと見ていたが、 急に一つ鳴き声を上げた。
「ミャ!」
「…美奈…」
達哉が自分のほうを見た事に気づくと、美奈は紙の上を歩き始める。達哉はそれを一つずつ読み上げていく。
「ミリイ…に…呼ばれた理由は…わからない…けど…きっと…私が…戻る…手がかりになると思う…?」
何度も紙の上を行ったり来たりして、美奈は流石に疲れた様子だった。これを使えば意思の疎通は簡単だが、効率は悪かった。しかし、 達哉はその美奈の言葉を信じた。何故今になって急にミリィからのメッセージを美奈が受け取ったのか、どうやって受け取ったのか、 分からないことは多いけど、美奈自身が戻るために自らそう訴えてきたのなら、試す価値はあるはずだ。 少なくても手がかりもなしに闇雲に図書館をウロウロするよりかはマシだろう。
「わかった。じゃあ明日、ここに行こう。ミリィが、俺と美奈をそこへ導くというなら」
達哉はそう言って美奈を抱きかかえた。一瞬、さっきのキスのことが有って美奈は逃げようとしたけれど、 もう達哉の疲れは消えていて心も落ち着いていたのがすぐに分かったから、美奈は大人しく彼の腕の中で喉を鳴らした。
「ちょっと狭いけど、我慢してくれよ?」
「ミャァオ」
達哉は美奈を移動用のケージに入れながらそう言った。美奈は大人しくその中へ入ると、達哉はゆっくりとそのふたを閉めた。
「じゃあ、行くか」
そう言って達哉は玄関のドアを開けた。外を見ると雲ひとつ無い快晴。直射日光を受けるアスファルトが熱を帯び、 場所によっては微かに陽炎さえ見えるほど。まだ午前中なのに、この暑さは少し堪えたが、それでも今日行動を起こさないわけにはいかない。 すぐにでもミリィのメッセージの意味を確かめなければいけないと思い、あの砂浜への日帰り旅行を決めた。 そして美奈にとってこれは猫になってからずっと拒んでいた初めての外出でもある。
達哉は丁寧にケージを扱い、なるべく美奈に振動が加わらないように気をつけた。兎に角、揺れを起こさないように慎重に取り扱う。
「お前、乗り物とか乗るとすぐ酔っちまうからなぁ」
信号待ちをしている時、達哉は美奈に少し笑いながらそう話しかけた。中の猫は不機嫌そうにそっぽを向く。そう、 美奈は乗り物が苦手だった。乗るとする気分が悪くなってしまう。そしてそれは多分、猫になっても直っていない可能性が高い。美奈の場合、 三半規管が弱くて酔うというよりも、揺れるものがそもそも嫌いという精神的なもので酔ってしまうから、 猫になって感覚が鋭敏になっても関係は余りなかった。
だからもしケージが大きく揺れるなどを繰り返したら、ケージ酔いになってしまうかもしれない。 それは達哉にとっても美奈にとっても面倒だし、望まないところだった。だからこそ達哉は美奈の入ったケージの扱いには細心の注意を払った。 そうして何とかゆっくりながらも歩みを進め、近くの駅へ着くと切符を買いそのまま乗車した。ホームで待っている間や車内で座っていると、 周りの注目を集めたが、達哉はそれを特に気にはしなかった。
元々周囲の眼なんて気にならない性質なのだ。だからこそ、ミリィをそこまで愛せたのかもしれない。 美奈はケージの中で見えない達哉のことをそんな風に考えていた。しかし、こうして列車の中にいると、これもまた暇なものだった。 窓から外の景色が見られるなら少しは退屈しのぎにもなるだろうし、そもそも列車の旅の楽しみ方の基本はそこだろう。それが出来ずに、 ただただ代わり映えのしない車内を見続けていると飽きてしまう。
そう思った美奈は、酔ってしまう前に眠りに付くことにした。どうせ海まではまだまだ距離は遠い。海で何が起きるか分からないし、 体力は温存しておく事にした。一方達哉は窓の外をじっと覗いていた。しかし、特に景色を見ているわけでもなかった。ただぼうっと、 眺めているだけ。彼の頭の中には未だ、美奈が昨日伝えたミリィからの伝言の意味を考えていた。思い返す夏休み初日。 いまだに頭にこびりついて離れない、あの時のミリィの姿。自分の無力さ。そしてふさぎこんだ数日間。
そこへ美奈がやってきた。久しぶりに訪れてきた幼馴染。その彼女が目の前に猫に変身して今日までその猫と暮らしてきた。思えば、 美奈が来た事で達哉はミリィを失う前のように明るく振舞えるように戻っていた。それは、 美奈を元の姿に戻すという明確な目的があるのもそうだが、それと同時に美奈とミリィを自然と重ね合わせていることで、 どこか心のバランスを保とうとしていたのかもしれない。
自分にとってミリィ、そして今の美奈…その存在がかけがえの無い存在であることは間違いない。しかし、 達哉はミリィを恋人のようにさえ思っていた存在。それと同じぐらいに美奈の存在は達哉にとって重要なものになっていた。だからこそ、 昨日のキスが有った。あの瞬間、達哉は自分で疲れているといったが、だからといってそれを狙っていなかったわけでは実際無かった。どこかで、 自分の中での美奈の存在が変わってきていることに気づいた、その本能にある意味は従っただけの行為だったのかもしれない。だとすれば… 今俺は…美奈の事をどう思って…?
達哉がそう頭で考えをめぐらせた瞬間だった。列車内に突然アナウンスが響く。 内容は本来とまるはずのない駅に停車する事を告げるものだった。何でもその先の線路で列車事故が起きたらしい。
「またなの…?」
「この間の事故と場所近いよな…」
列車の乗客たちが口々にざわめく。確かに、ふと駅名を見たらこの間テレビで見た列車事故が起きたのはこのちょっと先のところだった。 達哉は、これで鉄道会社がどうなるかということを気遣いつつも、思わぬ形で足止めを喰らってしまった事にため息をついた。
「ミャォウ?」
不意にケージから鳴き声が聞こえてきた。このざわめきで美奈が目覚めてしまったようだ。達哉は辺りの乗客の様子に気を配りつつ、 小声で美奈に語りかける。
「…何か事故が有ったみたいでさ…止まってるんだ…」
「…ニャァ…」
美奈はそれを聞いて一息ついた。どんな事故かは分からないが、何にせよ自分たちがそれに巻き込まれなくてほっとした。 しかし折角日帰り旅行なのに、こんな所で足止めを食ってしまうとは、ついていない。復旧のめども今のところ立っていないようだし、 すっかり立ち往生してしまった事になる。すると再びケージの中を覗きこみながら達哉が美奈に話しかけてくる。
「どうする?降りちゃうか?」
「ミャウ?」
「まだ海まで結構有るけど…歩いて二時間って距離だから、行けない事もないし。ここでじっとしてても仕方ないしさ」
「ミャァオ!」
美奈は肯定の意味で鳴いた。達哉はそれを聞いて頷くと席を立ち、改札を通って駅の外へと出た。太陽は更に高くなり、 日差しは強くなっていた。達哉はケージを手に、ゆっくりと見知らぬ町を歩き始める。すると目の前に川が流れているのを見つけた。 川の名前を見ると、達哉の家の近くを流れるあの川だった。
「じゃあ、川下まで辿れば海に着くな…」
確か丁度この川の下流は目的地の砂浜と近かったと記憶していた。そして辺りを見渡す。夏休みとはいえ、 昼間の住宅街を流れる河川敷に人は少なかった。
「美奈、どうする?ここなら人も少ないし、ちょっと外へ出てみないか?」
達哉はケージの中に呼びかける。中を見ると、猫は少し考えていた様子だったが、首を縦に振り、喉を鳴らした。
「よし、じゃあ開けるぞ?」
達哉はケージのふたを開ける。美奈はケージの中から恐る恐る出てくる。目に飛び込んできたのは広がる芝生。優しい風がその芝生を、 そして美奈の身体を撫でていく。美奈はその心地よさに気分が高まり、体がむずむずし始めた。久しぶりの外。猫になってから初めての外。 もう我慢できなくなった美奈は勢いよく走り出し始めた。達哉はその急な出来事にすぐ反応できず、少し遅れて彼女の後を追った。
「美奈!待てよ!」
飛行機雲の下、少年と猫は風が吹き抜ける川の近くを走っていった。
ミリィの光 第4話「ミリィからの伝言」 完
第5話に続く