今、花を咲かせて 前編
【人→ポケモン】
青い空の下、広い草原や、込み入った街中や、暗い森の中や、熱い砂浜。そういったところをただ何も考えずに歩く。そんな些細な事さえ、 彼女にとっては強い憧れの対象だった。家の外に出ることさえ叶わない彼女にとっては。
だから家の外に何があるのかを、彼女はすごく知りたがった。自分の身体で見聞きできないもどかしさ。 それを少しでも紛らわしてくれたのは、いつも彼女の家にやってくる少年だった。今日も少年は、彼女に会いに彼女の家にやってきた。 玄関の前に立ち、ベルを鳴らす。
「はい、どちら様?」
ドアの向こうから、女の人の声が聞こえる。彼女の母親だ。
「サトルです。サヤさん、会えますか?」
「あぁ、サトルくんいらっしゃい。待っててね、今開けるから」
彼女の、サヤの母親がそう言い終えるか終えないかのタイミングでドアが開いた。少しやつれたサヤの母親が、笑顔でサトルを出迎えた。
(サヤの母さん、またやつれてる・・・疲れてるんだ・・・)
少年、サトルは彼女の姿を見て軽く会釈をした。そして家の中へと入る。しかし、すぐにはサヤに会えない。まずは、 外のほこりなどが入らないように玄関先でしっかり身体を払い、洗面所で手を洗い、防菌用の白衣のようなものを身につけ、頭に三角巾を巻き、 口をマスクで覆う。少しでも余計な菌が飛び散るのを防ぐために。
ようやく準備が整うと、サトルとサヤの母親は二階のサヤの部屋へと向かう。
「サヤ、サトルくんが来たわよ」
サヤの母親がドアをノックしながらそう告げる。しばらくの間の後、ドアの向こうから弱弱しい、 だけどとても澄んでいて綺麗な少女の声が聞こえてきた。
「いいよ、入って」
サトルはその声を聞くとゆっくりとドアを開く。それと同時に隣からサヤの母親が話し掛けてきた。
「サヤ、今日は調子よさそうだから、20分ぐらいは大丈夫だと思うわ」
「分かりました」
サトルはマスクでくぐもった声でそう答えた。サヤの母親はそのまま今来た階段を降りていった。 サトルはそれを見届けると再びドアに視線を移し、ドアが半分ぐらい開いたところで部屋の中へと入る。 そしてドアを背に開けたそのドアをゆっくりと閉める。彼の目の前には、ベッドの上に横たわる一人の少女がいた。部屋全体は白一色で、 彼女とベッド、そしてサトルにはよく分からないが、何かの医療器具と薬を置くための棚が有る程度の、とても質素で、 ある意味寂しい光景だった。
「サトル、来てくれたんだね」
「当たり前だろ、約束だから」
サトルはそのまま部屋を進み、ベッド横の椅子に座った。近くで見ると、彼女の身体の状態がよりよく分かる。細く白い彼女の身体は、 弱弱しく、しかし美しかった。
「ねぇ、今日は何処に行ってきたの?」
「あぁ、東の海岸沿いで釣りをしたり、ポケモンバトルを見てきたりしてな。結構強いトレーナー同士のバトルだった」
サトルは、今日までに見てきたことをサヤに話し始める。色々な出来事、色々なニュース。体のことを第一に考え、 サヤの部屋にはテレビも新聞も置かれていない。些細なニュースでも、サヤはサトルや両親から聞くしか、世界の事を知る術は無かった。 サトルの口から語られる世界が、サヤの心を満たしていくのだ。彼の話一つ一つにサヤは笑ったり涙したり驚いたり。 ただじっとしているだけの毎日の生活の中で、ただ唯一この瞬間だけは、サヤの心に豊かな感情が宿っていた。
「そっかぁ、そんな事があったんだ・・・」
サヤはサトルの話をとても真剣に聞くから、サトルの話すテンションもどんどん上がっていった。しかし、 そんな彼の喋るペースが突然何かを思い出したかのように勢いを失った。その異変に気付いたサヤはサトルに問いかける。
「・・・どうしたの・・・?」
「いや・・・」
サヤに今見ることが出来るサトルの表情は、目と眉だけだが、それでも少しサトルが何かを躊躇している事が分かる。 その事に気付いたサヤは、サトルの手の平をその細い指で握り、小さく、無言で頷いた。
「・・・サヤは、さ。やっぱ俺がずっと、こうして話してあげた方が・・・してもらえた方がいいか?」
「え?・・・それ、どういう意図で聞いてるの?」
「・・・俺、ポケモントレーナー、やっぱりなろうかと思って」
サトルのその言葉に、サヤは声を上げずに彼の瞳を見つめた。サトルの目は真っ直ぐ先を見据え、明るく輝いていた。しかし、 同時にサヤへの思いも絡んで表情そのものは複雑だった。しばらくしてサヤはようやく口を開く。
「・・・今更?サトルはもう、15じゃない」
「別にいいだろ、今更だって・・・夢追いかけたって・・・」
「ごめん、そういう意味じゃなくって・・・15にもなったんだから、それぐらい自分で決めて、自分の好きなようにすればいいって意味」
「サヤ・・・」
サトルは俯いたまま自分の手を合わせ見た。目線がサヤから逸れているその瞬間、一瞬の間にサヤの細い指はサトルのマスクをつまみ、 そのままマスクを下げた。その下からサトルの唇が姿を現す。驚いたサトルは強く、 しかし唾が飛んだり埃が立たぬよう静かな声でサヤに語りかける。
「・・・何やってるんだよ・・・」
「そんなものしてたら、サトルの顔がよく見えないし、キスだって出来ない」
「お前の病気を、悪化させないためだろ?」
「分かってる。分かった上で言ってるの」
サトルは性質悪いなと一言呟きながら、一つため息をつく。普通の人間には何の影響も無い些細なウイルスや埃、 微生物がサヤにとって致命的だということは互いに分かっていた。本当は外にいた人間が家の中に入ることさえ控えるべきである。しかし、もし・ ・・サトルと会えないことはサヤにとって、死ぬ以上に死に近いことだった。・・・それでも。
「サトルが、自分で決めたんでしょ?だったら、私のことよりも、自分の決めたことを大事にして」
「俺は・・・サヤの傍にいたい」
「・・・私もサトルにいて欲しいし、サトルのその気持ちも嬉しい。・・・でも、それ以上にトレーナーになりたい思いが強いんでしょ?」
「・・・サヤ、世界は広いよ。俺が今まで語ってきたよりも、ずっと」
サトルは窓のほうを見た。風が吹き込んでくるのを防ぐため、長く開けられていない窓は何処か寂しげに青い空を映す。
「トレーナーになれば、あちこち旅が出来る。サヤに話して上げられる事がずっとたくさん増える」
「でも、その間はずっとサトルと会えないでしょ?私、その間サトルの事を待っているだけの価値ってある?」
「あるさ。大丈夫」
サトルの自信に満ちた口調と瞳。サヤはそれを見て彼の手をとり静かに頷く。サトルは言葉を続ける。
「・・・サヤにもっといろいろな事を話すことが出来る。世界の事、ポケモンの事。俺も知らない事がきっとあると思う。それに・・・」
サトルはその視線を手元から上に上げ、彼女の目線と合わせた。透き通ったブラウンが光って見える。
「会えない分だけ、想いは強くなるだろ?」
「・・・だね。サトルと、もう会えなくなるわけじゃないんだろうし」
「あぁ、1年もすれば・・・いや、もっと短く、3ヶ月で一度戻ろう」
「3ヶ月か・・・」
「長いだろうし、あっという間だろうな」
サトルは改めてサヤの手を握りなおす。今にも壊れてしまいそうな細く優しいその指を、痛くないように、だけど強く。
「じゃあ、ほら。思い出、作っとこうよ」
そう言ってサヤはすっと指を解き、腕を伸ばしその手をサトルの首筋へ運ぶ。冷たいはずの彼女の指が、不思議とサトルには温かく感じた。 そしてサトルはその腕に引かれるまま首を傾け、顔をサヤに近づけていく。2人の唇が静かに重なる。その瞬間、あぁ、 この温かさは心の温かさなんだと、サトルは瞳を閉じながらそう考えていた。この温かさを、手放しちゃいけない。サトルも、サヤも。 サトルはゆっくりと自分の顔をサヤの顔から離していく。そして十分離れたところで小さく呟く。
「・・・病気、悪くなっても知らないぞ?」
「いいよ、私は。サトルとキスできるなら、命ぐらい」
「バカ、お前がいなくなったら、今度は俺が寂しいだろう」
サトルはそう言いながら、外していたマスクを着け直した。もう、サトルの表情は分からない。 マスクは完全にサトルの口元から頬までを隠すから、彼の赤らんだ顔を隠すには丁度良かった。
「私だって、サトルがいなかったら寂しいんだよ?」
「でも、だから俺は戻るって言っただろ?また会えるって分かっていれば、怖くないさ」
サトルはすっと椅子から立ち上がり、その手をサヤの頭の上にぽんと置いた。
「だから、俺が戻るまで、きちんとここにいろよ?」
「わかってる。大丈夫だよ、私最近調子いいし」
サヤはそう言って笑顔をこぼす。その笑顔が壊れないで欲しい。それだけがサトルの願いだった。だから、少し寂しくても、 もっとサヤが笑顔になる事をしたい。それがトレーナーになって旅をするという決意に繋がった。
「じゃあ、今日はそろそろ帰るわ。飯、食わなきゃ腹減ってきたし」
「うん。じゃあ、またね」
「あぁ」
そしてサトルはまた静かにドアを開く。夕方になって少しだけ冷たくなった空気が部屋の中に入り込んだ。 サトルは一度サヤのほうを振り返り、マスクの中で微笑んで見せた。サヤも、首を傾けてさっきまで触れ合っていたその柔らかな唇を微笑ませた。 サトルは無言で小さく手を上げ合図をすると、部屋の外へと出た。そして再びマスクを外し、ゆっくりと息を吸い込む。
「あら、もういいの?」
丁度階段を上がってきたサヤの母親がサトルに問いかける。
「はい」
「そう、いつもありがとう。サヤと親しい子といえば、もうサトルくんぐらいだから」
「いえ、俺だってもうここぐらいしか”あぁ、帰ってきたんだ”と思える場所、無いですから」
サトルは笑顔を作ってサヤの母親のほうを振り向いた。その笑顔が、本当に心の底から微笑んでいる笑顔であり、 しかし何処か疲労と愁いを帯びているのを感じて、サヤの母親は胸が締め付けられそうだった。
何度、自分の体のことを呪ったことだろうか。先天的に呼吸器を中心に脆弱な身体に生まれたサヤは、 普通の人と同じ生活を送る事が出来なかった。徹底された衛生管理。外出はおろか、自室から出ることさえ殆ど不可能。 閉ざされたサンクチュアリの中で少女はただ素直にベッドの上で成長するだけだった。だから彼女は美しく、弱かった。
そんなサヤにとって、サトルはただ一人の家族以外で大切な人間だった。寂しく一輪咲く花のために歌う鳥のように、 サトルは頻繁に彼女の元を訪れた。小さい頃、病院で偶然から出会った2人は幼いながらも互いに惹かれあった。 初めのうちはサトルが他の子供にしたいたずらや、近所の冒険・探検などいかにも子供らしいものだったが、 そうした毎日を暮らす中でサトルは少しずつ、世界を冒険することへの憧れと、サヤへの思いを募らせていった。しかし。
「サトルが・・・今までトレーナー目指せなかったの、私のせいだからなぁ」
「責任、感じてるの?」
サヤは、自分の部屋を掃除している母親に向かってボソッと呟いた。
「感じてないとしたら、無神経すぎるでしょ?」
「でも、引きずる必要は無いでしょう?結果的に、トレーナーになったんだし」
「引きずってないよ。ただ・・・うん、多分、悔しいのかもしれない」
「・・・悔しい?」
サヤの母親は、娘のほうを振り返り問いかけた。
「サトルには、自由があるから。例え束縛があっても、それを断ち切る力と心があるから」
「サヤ・・・」
「・・・ゴメンネ、母さん。私、こんなことしか言えなくて」
サヤは虚ろな目で、窓から空を見る。少し日が傾き始めている。夕日に照らされた娘は細い線でかたどられて、 まるで彫刻のような美しさを放っていた。母親として、その美しさを作り上げてしまった責任と後悔、 そして愛が彼女を失いたくないという想いに昇華する。気付いた時には、彼女の腕は強く、 しかし負担をかけないよう尚優しくサヤを包み込んでいた。
「母さん・・・」
「あなたは、守られているわけじゃないの。あなたが生きたいと望む事が周りの人に勇気を与え、 その周りの人が頑張ってる姿があなたに勇気を与えるの。サトルくんは、あなたを信じたから、待っていてくれるって信じたから、 トレーナーになる事を決意したのよ」
「うん・・・分かってる。私がいるから、サトルがいるし、サトルがいるから、私がいるんだよね」
サヤは、母親の手袋に包まれた手をぎゅっと握り返した。手袋をしていても分かる、大きくて温かい手。正しく、 母親の手はこの手であると強く感じていた。
「ねぇ、母さん。夕日が綺麗」
「本当・・・温かいわね」
サヤの母親はサヤにそう答えた。だけど、サヤは夕日の温かさよりも、今自分を抱く母親の温かさと、 唇に残るサトルの温かさの方がずっと強く感じていた。
今、花を咲かせて 前編 完
後編に続く
見ていない間にけっこう更新が……
感想
他の作品とは少し違った感じの始まり方なので、また新しい感じがしていいと思います。
毎回ながら情景の描写も細かくて様子がしっかりと伝わって来るので、会話も自然な感じがします。
実は、僕が書いている小説も最初は病気で寝たきりになってしまった主人公が出てくるんですが、情景の描写が上手く行かずに、その場面を書き始めて1ヶ月以上挫折していました(汗
さすがです。僕も少しでも上手くなれるように頑張ります。
★宮尾レス
コメント有難う御座います。
あまり普段は主人公が病気持ちという設定を使うことは、自分の作風を考えて避けているのですが、たまにはそんな自分の得手不得手にしっかり向き合って新しい雰囲気を開拓しようと思ったのがキッカケです。
自分が体験したことの無い事を書くのは難しい事ですが、自分だったらどう思うかを中心に、そのキャラがどう思いどう喋るか、その様子を書き留めるように小説を書くと状況描写はまとまっていくことがあります。参考になればと思います。
★宮尾レス
コメント有難う御座います。
実際のところ、2人とも主人公といえるのですが、より話の中心にいるほうを主人公として描くので、今回はサヤが主人公です。2人の関係が今後どうなっていくのか、注目していただければと思います。