奇妙な静寂が続いていた。赤い光はいつの間にか収まっている。それはさっきまでと変わらぬ達哉の部屋。違うとすれば、 さっきまでここを訪れていた美奈が姿を消し、彼女が着ていた服が達哉の足元に不自然に落ちている点。
達哉はおもむろにその美奈の服を持ち上げようと手を伸ばしたが、それに触れる直前、急に服がモゾモゾと動き始めた。 それを見て達哉は手を引っ込め、その様子を見るためにしゃがみこんだ。やがて彼女が着ていた服の首のところから何か光る二つのものが見えた。 …そして達哉には瞬時にそれが何なのか、記憶と重なり思わず呼びかける。
「…ミリィ…!?」
内心、そんなはずは無いと言い聞かせたが、今見えた二つの光は、彼がよく見慣れたミリィの瞳そのものだった。青く澄んだ、 空のようにすがすがしい彼女の瞳を、見間違えるはずは無い。しかし、その瞳がそこに有るはずもやはり無い。…だとすれば。 達哉の頭の中で一つの可能性が式として成り立つ。今度は違う名を呼ぶ。
「…美奈…?」
すると服の動きはぴたっと止まる。…まさか、そんな事が現実に起こりうるだろうか。達哉は常識を超えた目の前の出来事に、 また言葉をなくしてしまう。
それは美奈も同じだった。美奈の身体は完全に消え去ってしまったわけではなかった。いや、美奈はその場から一歩も動いてさえいない。 美奈はずっと、そこにいたのだ。自分の服に埋もれるように包まって。その服の中で彼女は瞳を閉じて震えていた。瞳を開くのが怖かった。 開けば、自分の身に起きたことを嫌でも認めなくてはならない。さっき目を開いた時に視界に飛び込んできた、自分の前足も、 大きく見える達哉のことも。認めるのが怖かった。
「…美奈…美奈なんだろ…?姿…見せてくれよ…?」
達哉が服の外で自分のことを呼ぶ声は勿論聞こえている。しかし、自分のこの姿を達哉には見られたくなかった。いや、達哉でなくても、 自分を知っている人間には見られたくなかったのだ。…でも、ずっと服に包まり続けているわけにもいかないのも分かっていた。 美奈は覚悟を決めて再び瞳を開くと、四本の足で自分の服の中を進んだ。そして首のところからその小さな頭をひょっと出す。 三角に尖った耳が一瞬引っ掛かり、パタッと折れてしまった。
「…ミリィ…じゃないんだよ…な…?」
達哉は姿を見せた美奈を見て、また思わずミリィの名を口にしてしまった。美奈はそれを聞いて、悲しげに答えた。
「…ミャァ…ミャウ…!?」
ミリィじゃない、私は美奈。そう答えたかった。なのに言葉が出ない。出てくるのは鳴き声のような高い声ばかり。… もう美奈は自分が何なのか分かっていたけれど、しかし自分に言い聞かせるためにあえて自分の姿を確認しなおそうとし、あたりを探す。 見つけたのは、ガラスの扉を持つテレビ台。今の美奈の目線がその低いテレビ台には丁度良かった。そして恐る恐る覗き込む。
白と黒のストライプの毛で覆われた身体。柔らかな肉球を持つ前後の足。すっと伸びたしなやかな尻尾。 頭の上に山のようにそびえたつ耳に、ピンクの鼻先の横から鋭いひげが数本伸びている。そして首にはさっきの赤い首輪が巻いてある。 一匹のアメリカンショートヘアーが美奈を見返していた。そして美奈が動けばその猫も動く。ガラスは鏡。そこに美奈の姿は映っていない。 美奈は、驚きと、焦りと、諦めと、兎に角色々な感情が入り混じり、思わず叫び声をあげてしまう。
「ミャァウ…!?」
声も、猫そのもの。…いや、その様子を見ていた達哉からすれば、その美奈の様子は猫そのものではない。ミリィそのものだった。 達哉は何とか平常心を保ちつつ、目の前にいる猫に、気持ちを落ち着かせて声をかける。
「本当に…本当に美奈なんだな?」
「…ミャァゥ…」
猫は悲しそうに頷きながら答えた。美奈も達哉も認めなきゃいけなかった。今ガラスに映っている猫が、自分であること。 目の前にいる猫が美奈である事。
そう、美奈がミリィの姿になってしまった事を二人…いや、一人と一匹は認めなきゃいけなかった。
「…ミャゥ…ミャ、ニャオ!?」
何で、どうして!?美奈はあまりに不条理な出来事に達哉に対してすがるように前足を彼の膝にかけ訴えかけるが、 その言葉は猫の鳴き声でしかない。達哉には当然その意味は通じないし、叫べば叫ぶほど、 自分が猫であることを認めてしまうような気がして辛かった。
達哉も、言葉こそ分からないけど、美奈の悲しみと戸惑いが混じった鳴き声を聞いていると、心が締め付けられそうだった。 それでも何とか彼女を元に戻す方法を考えようとする。何故美奈が猫になったのか。理由は分からないが、 原因は彼女の姿を見ていてふと思い出した。
「首輪…!」
美奈の首には、彼女が持っていたはずの首輪がいつの間にか付けられていた。首輪が光って彼女を猫に変えたのなら、 首輪を外せば元に戻るかもしれない。達哉はそう思い自分に擦り寄る美奈を一度抱えあげる。
「ミャ!?ミギャウ!」
「大人しくして!首輪を外せば…戻れるかもしれない」
その達哉の言葉を聞いて、美奈の表情は少し晴れ、それ以降大人しくなった。達哉が首輪を外す邪魔にならないように、 じっと動くのを我慢した。達哉はその手で美奈を仰向けにする。彼女は猫の表情でも何処となく恥ずかしそうに見えたが、 達哉は彼女の首輪を外そうと必死だったからその表情にも、自分がしたことの意味も深く考えていなかった。
しかし、達哉は中々首輪を外す事が出来なかった。元々首輪はミリィが苦しくないように緩いものをつけていたはずなのに、 今の美奈の首にはしっかり、まるで巻きついているように固く締められている。何とか金具を外そうとしても、 何故か手が滑ってしまい上手く力が入らなかった。外せば戻れる。そう信じ達哉は必死で首輪を外そうとし、美奈はじっと動かずに耐えていた。 だが、結局首輪が外れないまま数十分が経過し双方の集中力は既に限界に達していた。
「くそ!何でだよ…なんで外れないんだよ…!?」
「ミィ…」
達哉は、美奈の首から手を外した。細かい作業を続けた指はつりかけていた。達哉の心に諦めと、悔恨が広がっていく。 突然猫になってしまった彼女。何も出来ない無力な自分。俯いたまま、達哉は呟いた。
「…ごめん…」
「ミャァ…?」
美奈は体を起こし、四本の足で立ち上がると達哉のほうを見上げた。彼の頬に一筋の光が見えた。美奈は身体を後足で立つ様に起こし、 彼の頬をつたうそのしずくを舐めた。
「…美奈」
その仕草がまるで本物の猫のようだから、達哉はますますいたたまれなくなった。でも分かっている。 本当に辛いのは猫になった美奈自身なのに、それよりも自分を責めていた達哉を励まそうとしている事を。
「…ごめん、必ず元に戻る方法は俺が見つけるから」
その言葉は何処か自信無さ気だったが、しかし決意は確かにこもっていた。彼女が猫になってしまう。 普通じゃ起こらない事がおきてしまった以上、どうすればいいかは分からない。でも、もうこれは一人の問題じゃない。 達哉は動き出さなければならなかった。こうして、悲しみの淵から動き始めた達哉と、意外な形で帰ってくることになった美奈の心を持つ “ミリィ”、一人と一匹の奇妙な共同生活が始まった。
「うん…美奈、当分こっちに泊まっていくって。…うん…うん、わかってる、食べてるよ。大丈夫だよ、俺の事は。…わかった、じゃあ…」
電話の相手は達哉の母。美奈に自分の様子を見るように頼んだ彼女に、美奈がしばらく自分の家に泊まり、 帰らないことを知らせる必要が有った。もっとも、帰らないのではなく、帰れないのだが。達哉は受話器を置くと、 寂しそうに椅子の上に座っている猫のほうを見た。こうして黙って座っていると、ますます達哉にはミリィにしか見えないから、 思わずミリィと呼んでしまいそうになるが、はっと気づき、一つ咳払いをして声をかける。
「これで仕方ないよな…美奈?」
「ミャウ」
美奈は答えるように一つ鳴いた。達哉は彼女の横に座り込み、手を出そうとしたが、途中ですっと引いてしまう。
「…ごめん、触ったら、嫌だよ…な?」
「ミャ…?」
「その…猫の姿でも、あれだ…裸…な、わけだろ…?」
「…ミャァウ」
美奈はそう鳴くと、彼女の方から達哉の方へ近寄ってきた。まるで本物の猫が甘えるように。達哉は、 少し遠慮しながらもそんな美奈の身体をそっと撫でる。まず頭に触れ、そのままその手は背中を通り尻尾に抜けるまですっと撫でていく。 その毛の感触は柔らかく優しく。それもまた、ミリィそのものだった。外見も、声も、その全てがミリィなのだ。唯一つ、 その心が美奈である事を除けば。
「食事とか…どうなんだろう?」
達哉は独り言のようにボソッと呟いた。それを聞いて美奈はその瞳を丸く大きくして達哉のほうを見上げた。
「キャットフード…とか…食べたくないよな…?」
達哉は恐る恐る美奈にそう問いかけた。いくら猫とはいえ、元が人間である美奈にキャットフードを食べさせるのは少し気が引けた。でも、 外見が猫ならば、その内臓器官も当然猫の造りになっていると考えるのが正しい。だとすれば、人間の食べ物を与えるわけにもいかなかった。 その点は美奈だって理解できている。むしろ美奈の方が自分の身体の事を把握している。この身体は猫そのもの。ならば、 食べるべきものが何なのか、答えは出ていた。
「ミャァウ」
訴えるように美奈は一鳴きした。そして達哉の傍から離れると、キョロキョロと何かを探すように辺りを見回す。
「…キャットフードを探しているのか?」
「ミャア」
美奈は肯定の意味で鳴いた。達哉は少し困惑しながら聞き返す。
「いいのか?キャットフードで、本当に?」
美奈はその小さな頭を静かに縦に振る。恥ずかしがったり、意地になったり、妙なプライドにしがみ付いている暇は無い。 物を食べなければ生きてはいけない。その当たり前のことをしようとしているだけ。猫が食べられるものを食べる。ただそれだけのこと。
「…わかった。ちょっと待ってて。今、用意するから」
達哉はそう言って皿を取り出し、そこに棚の上から取り出したマグロの猫缶を開けて盛り付ける。
「マグロだったら、違和感なく食べられるんじゃないかなぁ?」
達哉はそう言ってその皿を床へと下ろす。美奈はその皿へとゆっくり近づき、鼻を近づけて匂いをかぐ。 そして一度顔を上げ達哉のほうをしばらく見たあと、再び皿の方を見て、顔を皿に近づけてそのキャットフードを口にし始めた。
「…どうだ?食べられそうか?」
達哉はそう問いかけたが、その答えは皿を見れば明らかだった。あっという間に皿に盛られたキャットフードは美奈の胃の中へと収まった。 美奈は満足そうな顔で達哉を見上げた。
「ミャア」
「…そうか、それはよかった」
勿論、達哉に美奈の鳴き声の意味は分からない。でもきっと、今の鳴き声には大丈夫、心配しないで、美味しかったよ、 そういう意味が含まれているんだろうと想像する。少しでも美奈の言葉を理解しようとする。彼女の不安を取り除くには、 美奈の事を理解していると思わせることが大切だと思ったからだ。
「じゃあ、俺も飯食うよ」
そう言って食パンを取り出し何もつけずに一枚食べた。
「はい、ご馳走様」
「ミャァウ!」
「うわ、な、何だよ!?」
急に美奈が何かに怒ったように興奮しながら爪を立てて達哉に襲い掛かった。
「ミャ!ニャオ!」
「…ひょっとして、マジで食パンしか食べなかったからか?」
「ミャアウ!」
そうだと言わんばかりに大きく鳴いた。その様子を見て、達哉は思わず吹き出しそうになってしまう。
「ハハ…悪い悪い。何だかんだ言ってもお節介やきなのな、お前」
「…ミャア」
「…そうだな…そうなんだよな…」
「…ミャゥ…?」
急に達哉は小声でまるで自分に何かを言い聞かせるように呟き始めた。その様子を見て美奈は首を傾げたが、すぐに達哉は美奈の方を見て、 語りかける。
「いや、やっぱり、お前は美奈なんだなって。そう改めて感じただけ」
「ニャウ?」
「猫になってもさ、その姿がミリィそのものでも…やっぱ中はさ、美奈なんだよな。ミリィの体の中に、美奈がいる…そういうことなんだ」
「…ミャアウ」
達哉はそういいながら、足元にいた美奈を抱きかかえる。そして美奈の丸く美しい瞳を見つめながら、言葉を続ける。
「…見つけてみせるから。必ず、お前が元に戻る方法を。そしてそれまでの間、俺がお前を守る」
「ミャ…」
美奈は達哉のその言葉を照れくさそうに聞いていた。俺がお前を守る。もしその言葉が、 人間の姿の自分にむけて言われている言葉だったら、どれだけ嬉しいだろうか。
「色々大変な事、有ると思うけどさ。何とかやっていこう。俺達で。夏休みはまだ長いし」
「ミャア!」
美奈は元気よく答えた。そう、まだ夏休みは始まったばかり。それまでに美奈を人間に戻す方法を見つけ出す。
希望を失っていた達哉にとってそれは、大袈裟に言えば新たな生きる目的に近かった。ミリィを失った今、ミリィの姿になった美奈のために、
全力を尽くす。達哉は心の中で強くそう決心した。
次の日から、達哉はかつてミリィを飼っていたときのように部屋の中を綺麗にするために掃除を始めた。
何日もこもりきっていた部屋は埃やゴミが溜まって、地面に顔が近い美奈にとっては不快であることに違いない。そんな達哉を、
美奈は隅の方でじっとしながら見詰めていた。本当なら手伝いたいのに、今の身体じゃそれさえ叶わない。むしろ邪魔をしてしまうだけ。
一生懸命に掃除に励む達哉に何もしてあげられない自分がもどかしかった。
一通り綺麗になると、達哉は一息ついて用意していた水を飲み干した。身体を動かした後、 その身体を冷たい水が身体に染み渡るのは心地が良かった。
「どうだ、綺麗になっただろ?」
「ミャアゥ」
美奈は隅のほうからゆっくり部屋の真ん中へと歩いてきた。自分が訪ねた直後は暗かった部屋が、すっかり明るくなっていた。 本当は自分がそういう面倒を見るつもりで来ていただけに、少しだけ美奈の心は複雑だった。
「ふぅ…さて、どうしようか?」
「ミャォ?」
「掃除も終わっちまったし、する事無いんだよね」
達哉はそう言って座り込む。折角の夏休みだが、達哉には何の予定も入っていない。
「ミリィと過ごすはずだったからさ。予定を何も入れてなかったんだよなぁ」
達哉は美奈に話しかけるようにそう呟いた。何気ない、彼の素朴な本心だろうけど、美奈にはそれは少しではあるものの、衝撃を受けた。 それだけ、この達哉がミリィを想っていたか、ということ。とても可愛がっていたのは知っていたけれど、今の言葉を聞く限りだと、 まるで恋人のそれだ。…何か、猫に負けたかと思うと、ちょっと悔しい。
「…どうする?外、出てみるか?」
「…ミャゥウ…」
美奈は少し考えた様子だったが、しばらくすると首を横に振った。流石に昨日今日猫になったばかりで、外に出るのには抵抗はあった。 猫の姿とはいえ、服を着ていないということは、つまりは、全裸。こうして達哉の横にいることだって、少しまだ、恥ずかしさが残っている。 幼馴染だから、まだ何とか抵抗は無いけれど、見ず知らずの人間にこんな姿を見られるのは嫌だったし、 達哉以外の知ってる人間であれば余計に嫌だった。
「でも…家にじっとしていてもすることないし…まぁ…と有りあえずテレビでも見るか?」
そう言ってリモコンの電源ボタンを押す。他愛も無いバラエティー番組の再放送が流れる。
「お前確か、音楽番組好きだったよな?」
そう言って携帯電話を取り出し、テレビ欄を見るが、まだ日中。面白そうな番組は特に無かった。
「…しゃあないな、昼メロでも見るか。他に面白そうなのも無いし」
そう言って達哉はリモコンの8のボタンを押す。ぱっと画面に映る中堅女優。迫真の演技で痛々しいまでに激しい愛を叫んでいる。達哉は、 自分でチャンネルを合わせておきながら眠そうに欠伸し、しまいには横になり始める。 達哉にはどうにもそういうベタベタなものには興味が薄かった。
むしろ横にいた猫のほうが食い入るようにその演技を見つめていた。内容は複雑で、 今まで見たこと無いドラマだから詳しいストーリーは分からないけど、状況からして多分、叶わぬ恋のパターンだろう。 身分が違えば恋愛なんて出来ない。それでも愛してしまった。ありがちなストーリーだけど、 不思議と今の美奈の心には何か引っ掛かるものがあった。
美奈だって恋愛したい年頃だ。やりたい事だって色々ある。でも、そんな矢先に美奈は猫になってしまった。 好きな人とかがいるわけじゃないけれど、もしこのまま猫から元に戻れなければそういう恋愛も出来ないんだなぁ、と想像してしまう。 考えちゃいけないことなのは解っているけど、こういうのを見ているとどうしても考えずにはいられなかった。
でもそうなったら、猫の彼氏作って、子供を生んで、育てて、のんびり達哉の家で暮らす。そういう生活も悪くはないのかなぁ、 と心の中で言い聞かせる。もしも、万が一の時のための覚悟。猫はふと、既に寝息を立て始めた達哉の方を見た。 久しぶりに身体を動かすなんてことをしたから、疲れてしまったんだろう。
窓の外を見る。日はまだ高いけど、窓から強い風が吹いてきて、それが心地よかった。猫は達哉の傍まで歩いていくと、 彼の胸元にぴったり寄り添うように身体を近づけ丸めた。そして一つ欠伸をすると、瞳を閉じる。 しばらくするとその暖かい部屋には二つの寝息が重なった。
ミリィの光 第2話「ミリィの中の美奈」 完
第3話に続く
★宮尾レス
コメント有難う御座います。
いつもの公開を前提にした作品と違って、賞に応募した作品なので盛り上げ方や区切り方がいつもと違うので、あんな中途半端なところで1話が終わってしまいました。今後も区切りが中途半端な場合もありますが、展開を是非楽しみにお待ち下さい。