ミリィの光 第1話「奇跡の発端」
【人→獣】
※「タイトルが先だ!文学賞」 応募作品・原題「猫がくわえてきた奇跡-彼女が猫になっちゃった!-」
暑い夏の日、美奈は青く澄んだ空に飛行機のペンが雲の線を描くさまをぼうっと見ていた。 住宅街を裂くように流れる川の河川敷。 草の優しい匂いが心地いい。それを深く吸い込み、一気に吐き出す。 夏にしては穏やかな太陽の日差しは彼女を暖かく照らしている。 こうしていると、思わず丸まって寝てしまいたくなる。
美奈が草むらに寝そべって、一つ欠伸をした時に一人の少年が息を切らして走ってきた。少年の顔には安堵と、 疲労と、 心配が入り混じっていて、複雑な表情だった。少年は美奈の傍までやってくると、少し強い口調で語りかけてくる。
「美奈、困るよ!旅先で勝手にウロウロしちゃ!もし俺が見つけられなかったら、どうするつもりだよ!」
美奈は少年の方を見上げて、思わず申し訳無さそうに返事をする。
「…ニャア」
少年は、そんな彼女の声と、表情と、仕草を見て、ついさっきまで感じていた怒りや苛立ちはどこかへ消えてしまっていた。 そして少年は美奈の小さな身体を優しく抱きかかえると、彼女の小さな鼻先に自分の鼻を当てながら呟く。
「…こうしていると、本当にミリィみたいだよ。彼女も俺がこうやって鼻を当てると、よく喜んだんだ…変わってるよな」
少年は美奈の赤い首輪を見ながら、どこか懐かしそうに、そして悲しそうな表情でそう呟く。彼がそんな表情をしていると、 美奈は自分の心まで曇ってしまうような気になった。だから彼を励ますように声をかける。
「ミャァウ」
「…分かってる。落ち込んでいても仕方ないものな」
少年は美奈に答えるようにそう呟いた。そして彼女の身体を地面に下ろすと、その横に座り込んだ。 美奈は彼の身体に擦り寄るように身体を動かす。少年は彼女の小さな耳、頭、背中、尻尾と順番に撫でていく。それを美奈は気持ちよさそうに、 しかし何処か恥ずかしさと、切なさがその小さな表情から僅かににじみ出ていた。少年はそれに気づいてしまったから、 彼もまた同じような表情で俯いてしまう。
「何で…こうなったんだろうな…?」
少年は小さく呟いた。その疑問は彼の、そして美奈の内でずっと渦を巻いている。美奈と少年の、この奇妙な関係がはじまったあの日から。
達哉にとっての夏休みは、最悪の形で幕を開けた。彼は大学に通うために故郷を離れて一人暮らしをしていたが、 その寂しさを紛らわすために、ペットとして猫を一匹飼っていた。白いキャンバスに黒い絵の具で模様を描いたような、 可愛らしいアメリカンショートヘアー。性別はメス。ミリィと名付けていた。彼女の可愛さが引き立つように、 赤い小さな首輪をつけて。
彼女と暮らしたいがために、大学のすぐ近くではなく、 少しはなれたところにあるペット可のマンションをわざわざ借りたのだ。
大学から帰った時、大学の休みの時、兎に角時間が出来ればミリィと一緒に居る事に彼は努めた。そんな彼が、 彼自身の不注意で彼女を死なせてしまったとあれば、どれほどのショックを受けたかはかり知れない。
その日も確か穏やかな夏の日だった。長く降った雨があけ、太陽が濡れた大地を穏やかに乾かす。長い夏休み、 その始まりの日。 こういう日、達哉のすることは決まっている。ミリィと外を散歩することだ。 普段は家に一匹で閉じ込めてしまっているミリィを思いっきり、 外で遊ばせてあげたい。 そして多くの場合は家の近くを流れるこの川で彼女を放し、その様子を見守るのがお約束だった。
ミリィは基本的に臆病だから、達哉の傍を大きく離れる事は無かったし、 達哉もまた彼女から目を放す事は無かったことや、
その河川敷には余り他の人が来ない事から、 彼等にとっては絶好の庭のような存在だった。
ミリィにはお気に入りのボールが有った。達哉が彼女にプレゼントした、黄色いボール。ミリィにとってそれは最高の宝物だった。
嬉しい時も寂しい時もそのボールが手の中に有った。ある意味、ミリィにとっては達哉の代わりなのかもしれない。
広い河川敷に放されたミリィはいつものようにそのボールを追いかけ始める。 緑の芝生の上を黄色いボールと白黒の猫が追いかけっこを始める。達哉にとって、それはひと時の幸せ。 普段寂しい思いをさせているミリィへ精一杯の恩返し。
「おい、達哉!」
不意に土手の上のほうから達哉を呼ぶ声が聞こえた。声のする方を見上げると、自転車に乗った達哉の友人が、 こちらの方を見下ろしていた。その間もミリィはボールを追いかける。達哉が自分から目を離していることに気づかずに。
「研究室の女子とさ、海に行くんだ。お前も来ないか?」
「自転車でか…?遠いだろ?」
ミリィが追いかけたボールは更に勢いづくから、ミリィがボールを追う勢いも増していく。
「馬鹿。先輩の家までに決まってるだろ。海には先輩の車で行くんだよ」
「ふぅん…」
ようやくミリィはボールに追いつき、前足で力強くボールを押さえる。 その反動でボールは再び彼女の手から勢いよく飛び出し、 高く飛び跳ねる。ミリィはそのボールを追って、勢いよく飛び跳ねた。 彼女にはボールしか見えていなかった。高い柵も、 その先にある昨日の雨で増水した川も、彼女の眼には入っていなかった。
達哉はただひたすらに後悔した。何故、ミリィから目を離してしまったのか。 何故彼女の異変にすぐ気付かなかったのか。
川は増水していた。流れる水の音は大きく、小さなモノが川に落ちた音はかき消され、 聞き取る事は困難だった。
ほんの一分にも満たない僅かな時間、ただその間話しかけられたことで僅かに散った注意力。
見つかったのは少し川を下ったところ。既に全身から力を失った状態で、 必死で彼女を探していた達哉自身によって見つけ出された。 そしてすぐに動物病院へと運び、獣医も必死で蘇生を行おうとした。 しかし、医者は万能ではない。消えかけた命を取り戻す事は出来なかった。
暖かく、優しく、幸せだった今までの、そしてこれからの日々を一瞬にして奪ってしまったのは、 他でもない達哉自身の不注意なのだ。 声をかけた友人を責めたい気もあったが、その友人に罪は無い。達哉はただただ、 突然訪れてしまったミリィとの別れをどう受け止めていいか分からずに、彼女から目を離した自分の甘さを何処までも責めた。 口の厳しいものは達哉のことを、ペットを飼う資格がないと責めたが、その言葉は達哉の耳を素通りした。もうその言葉は、 達哉自身何遍も自分の心の中で繰り返した言葉。今更だった。
それからというもの、達哉は折角の夏休みであるにもかかわらず、 すっかり家に閉じこもり気味になってしまった。 友人たちの誘いにも応えず、実家の両親からの電話にも出ず、 じっと暗い自分の部屋でふさぎこむ日々が続いていた。 何日そうしていただろうか。時間の経過さえ曖昧なほど、 達哉は全てに対して無関心になっていた。何かしようとする気力も湧かない。 心も身体も磨り減っていた。
そんな時だった。その間誰も訪ねてくる事が無かった彼の部屋のチャイムが不意に鳴った。 しかし達哉の返事が無いから、 チャイムは二度三度鳴らされる。それでもまだ、 反応がないと判ると今度は中に居るはずの達哉に向けて大きな声で呼びかけてくる。
「達哉、いるんでしょ?開けてよ!」
若い女性の声。その聞き覚えのある声を聞いて、達哉は誰がたずねてきたのかを知り、 重い体をゆっくりと起こし玄関まで歩いていく。 そしてドアの前に立ち、そこにいるらしい彼女に向かって返事をする。
「…美奈…か…?」
「達哉?大丈夫!?もう随分連絡つかないから、お母さんたちも心配してるんだよ!」
「頼むから…一人にしてくれないか…」
「ダメ!何があったのか知らないけど…少しぐらい、話させてよ」
美奈の問いかけに、しばらく沈黙が続いたが、やがて俄かにゆっくりとドアが開く。 美奈は少し開いた隙間に手をいれ、 そのドアを思いっきり開いた。ドアの向こうにいた人の影が、美奈の視界に入る。
「…達哉…?」
思わず問いかけてしまった。聞かずに入られなかった。痩せこけた頬に不精ヒゲを生やし、 細く色白い手足が力無く構える彼の姿に、 美奈の知る達哉の面影は無かった。
「本当に…何があったの…?」
「別に…関係ないだろ…」
「関係なくない!…お母さんに頼まれたの。最近達哉が全然連絡取れないから、様子見てくれないかって。… 幼馴染として、当然でしょ? 」
美奈はここへ来た理由を語りながら、彼の部屋へと押し入っていく。達哉は腕を出して止めようとしたが、 今の彼にそれが出来る体力は無かった。美奈は閉ざされていたカーテン、窓を一気に開ける。 部屋の中に外の新鮮な空気が流れ込んでくる。
「こんな風に閉じこもってたら、折角の運気も逃げちゃうでしょ?」
「…別に…もう…失うものなんて無いし…」
「…?」
美奈には初めその意味が分からなかったが、しばらく部屋の様子を見ているうちに、 ようやく何かの違和感に気づく。…たしか、 達哉はこの部屋で猫を飼っていたはずだった。前に尋ねてきたときは、 真っ先に美奈の前に現れたのに、今日はその猫の気配すら感じない。 美奈はまさかと思ったが、念のため恐る恐る達哉に聞いてみる。
「猫…ミリィ…は?確か飼ってたよね…?」
「…」
「…どっか行っちゃったとか?預けてるとか?…それとも…」
「うるさい!」
美奈の言葉を遮るように、達哉は短く、しかしはっきりと叫んだ。 美奈は少し自分が無神経だった事を反省しつつ、 その質問を止めずにはいられなかった。
「じゃあ…ミリィは何処?何処に…」
「…話したくない」
達哉はそれだけ答えると、また黙り込んでしまったが、美奈ももうそれ以上聞くのはやめる事にした。 状況を察した以上、 もう達哉にその質問をぶつけるのは酷だった。
「…でも、その様子だと、しばらくまともにもの食べてないんじゃないの?」
「…パンは食ってる」
「だけ?」
「関係…ないだろ…」
「だ・か・ら!私は様子を見るように言われてきたの。…ソンなんじゃ身体に良くないよ。 嫌でも何か食べないと」
美奈はそう言いながら彼の小さな冷蔵庫を開ける。しかし予想通り中にまともなものは入っていなかった。 美奈はため息をつきながら冷蔵庫のドアを閉める。その時、冷蔵庫の上に赤いものが無造作に置かれている事に気づく。
「これって…」
美奈はそう言ってそれを手に取ってみる。…記憶が正しければ、確かこれはミリィがつけていた首輪。 濡れたようなシミがついている。 美奈がその首輪を手に取った事に気づいた達哉は声を少し大きくして美奈に近づく。
「勝手に触るな!」
「ご、ゴメン…!」
美奈はすぐに謝ってその首輪を置こうとした。…しかし。
「…あれ…?」
「おい…何してるんだ?早く離せよ」
「と、取れない…!?」
見ると、首輪はまるで美奈の手にくっつき、彼女がいくら引っ張ったり手を振り回したりしても離れないのだ。 初め達哉は美奈がふざけているものかと思って見ていたが、彼女の焦ったような表情を見て、 本当に手から首輪が離れなくなってしまった事を理解し、信じた。
「何なの…これ…!」
「ちょっと、見せてみろよ」
そう言って達哉は彼女の手のひらを見た。確かに、しっかりくっついている。 まるで接着剤でも使ったかのようだったが、 先の一瞬で彼女の手と首輪に接着剤がつくタイミングなど無かった。 達哉はどうにかしなければと思い、 試しに引っ張ってみようとその首輪に手を触れた…その瞬間だった。 突然その首輪が、それと同じ赤い光を発し始めたのだ。
「っぅわっ!?」
「何これ!?」
達哉はその光に驚き、思わずニ、三歩下がり、そのはずみで後ろへとこけてしまう。 硬いものが頭の近くになかったのが幸いだった。 しかし、その痛みにこらえて光のほうを見ると、光は更に大きくなり、 美奈の身体全体を包み込んでいた。
「何…なんなの…!?」
あまりのことに、美奈はただその光への疑問を繰り返し口にするばかりだし、 達哉にいたってはその光景の異様さに言葉も出なかった。 ミリィの首輪が突然光り出し、美奈の身体を包み込む。 その出来事の意味も何故おきたのかも理解できなかった。
美奈は光の中で何とか事態を把握しようと努めたが、その内自分の身体に異変が起きていることに気づいた。 光の元である首輪が、 いつの間にか自分の手から消えていて、更に自分の手の甲に毛が生え始めていたのだ。
「何…で…!?」
しかもその毛は徐々に生える範囲が広がっていく。手から腕、そして全身へと。 白と黒のストライプが彼女の身体を駆け巡る。 そして指は徐々に短くなり、手の大きさそのものも小さくなっていく。 その手の平はピンク色に色づき盛り上がる。 それは手と呼ぶより既に動物の前足に近い。そしてその形状、身体を覆う毛のその色。 美奈には見覚えがあった。
「これって…ミリィの…!?」
そういった瞬間、美奈はがくんと自分の視界が下がった事に気づいた。服も丁度いいものを着てきたはずなのに、 まるで子供が大人の服を着たかのようにぶかぶかしている。…つまりそれは、彼女の身体が縮んでいることを示していた。 その異様な現象がどういうことなのか、自分が何になろうとしているのか。美奈は悟っていた。
「たつ…や…たす…けて…!」
変わっていく身体で、美奈は必死に声を振り絞り達哉に助けを求める。 それを聞いて達哉はようやく目の前で大変な事が起きていることに気づいた。 ただただ目の前の異様な光景に呆気に取られるばかりで、 半ば思考が止まりかけていたのだ。
そして達哉は急いで立ち上がり彼女の元へと数歩駆け寄る。だが、彼女の身体を支え、 抱きかかえようとした瞬間腕は空を空振りした。
美奈の姿はその瞬間に消え、彼女の着ていた服が地面へと落ちた。 達哉はそこでまた、しばらく立ち尽くすしかなかった。
★宮尾レス
コメント有難う御座います。
ペットに限らず、大切な存在がいなくなるとすごく寂しいですよね。この話はそこから立ち直る主人公の話です。既に完成してる作品ですが、他の作品の進捗状況をみつつ順に公開していきます。是非オタノシミに。