2匹の関係
【人間→獣】
僕は誰だったろうか。
時々ふとした瞬間に、僕はそう考え出す。僕が誰なのかなんて決まっている。僕だ。僕以外の誰でもないし、 僕以外の誰かが僕であることも当然無い。だから僕は僕だと断言できる。そのはずだ。でも、時々やっぱり考えてしまうんだ。
僕は誰だったろうか。
もしかすると、僕は僕以外の誰かだったのかもしれない。黒く柔らかな毛を繕いながら僕は僕のことを考えていた。 そして小さくあくびをして、ゆっくり伸びをして、そのまま塀の上で丸まった。僕は1匹の小さな黒猫だ。
ミャァウ。
寝ている僕に塀の下から僕を呼ぶ声が聞こえた。何処か行こうよ、冒険しようよ。僕と仲のいい猫の声。 僕は丸まった身体をゆっくりとまた伸ばし、塀の下を覗き込む。やっぱりそこにいたのは、僕の一番の友である白猫がいた。
私、今日はあちこち歩きたい気分なの。
自分のことを私と呼ぶ彼女はメスの白猫だ。僕とは本当に仲がいい。いつも一緒に行動している。 ある意味友として以上の関係かもしれないけど、今はその季節じゃないから友以上にはならない。僕と彼女は今のところは友だ。
いいよ、僕も一緒に行くよ。
僕はそう鳴くと、軽々と高い塀を飛び降りた。そして僕達は2匹で並びながら小さな道を歩き始めた。 こうして歩いていると何だか懐かしい気持ちになる。確か猫になったあの日もこんな・・・。
・・・猫になった日?
何を言っているんだ僕は。僕は初めから猫じゃないか。僕が僕以外の誰でもないのなら、僕が猫以外の何かであったことは無いはずだ。 それとも、やっぱり、僕は僕以外の誰かであって猫以外の何かだったのか。
難しい顔をしてどうしたの?
白猫が心配そうに鳴いた。僕は大丈夫だよ、と小さく答えた。少し考え事、と鳴き声を続ける。すると彼女は、考え事だなんて、 まるで人間みたいだね、と笑った。僕もつられて笑ったが、急に僕の心はドキッとした。
人間。
普段イヤと言うほど目にしているし耳にしているから、今更見たり聞いたりしたってどうって事無い筈なのに、今日は何だか胸が高鳴る。
人間。
その言葉の響きに何故こんなに心が揺らぐんだろう。今日の僕は本当にどうしてしまったんだろう。考え事はますます考え事を呼んでいく。 その時彼女がまた、今度はひときわ大きく鳴き声を上げた。
うわぁ、大きな建物だね。
僕はその泣き声を聞いて目線の先を追った。いつの間にか普段来ない辺りまで歩いてきてしまっていたらしい。 見慣れない建物がそこにはあった。
・・・見慣れない建物?
まただ、僕の中で何かが引っ掛かっている。僕の中から僕が問いかける。この建物に本当に見覚えが無いのか? この建物の事を知らないのか?
学校。
そう、人間の子供たちが勉強と呼ばれる作業をするために毎日足を運ぶ建物。それを人は学校と呼んでいた。 僕はこの建物が学校であることを知っている。いや、そうではない。僕はこの学校のことを知っている。だって僕は。
僕はこの学校の生徒だったんだ。
ようやく僕は僕であることを思い出した。確かに僕は僕以外の誰かだったし、猫以外の何かだった。僕はかつて人間の男の子で、 この学校に通っていたんだ。
しかし、僕は猫だ。
1匹の小さな黒猫だ。その事実に違いは無い。何故僕は1匹の小さな黒猫なのだろうか。人間だった僕に何があったのだろうか。 僕はあの日の記憶を辿ってみる。
僕が人間だった最後の日。
僕はいつも通り学校に行って授業をして、遊んで、給食を食べて、そして学校を後にした。 確かその時クラスメイトの女の子と一緒に家に帰ろうとしていたんだ。その後確か・・・そうだ。
その後、突然光が僕達を包んだんだ。
その光の中で僕はどうすることも出来なかった。ただただ僕は光の中で無力だった。 突然すぎることに何が起きたのか頭がまるで回らなかった。
そうしていると変化がおきた。
僕の身体が徐々に小さくなり始める。僕を包んでいた服は、丁度いいサイズだったのにどんどんぶかぶかになっていく。 やがて僕はすっぽり服に埋もれてしまった。
その服の中で変化が続く。
長い指は短くなって、その指先には人間の平らな爪に代わって鋭い尖った爪が生える。手の平は肉が盛り上がってピンク色に色づくと、 それは柔らかな肉球になった。足も同じようになっている。その甲には黒い毛が生えている。
その黒い毛は僕を侵食し始める。
その黒はまるで波のように手足からそれぞれ腕と脚を伝わって、僕の腰を、背を、流れていくように覆っていく。 小さくなっていく僕の身体はすっかり黒一色。その変化の波は僕の骨格も変える。尾てい骨が延びていく。
それは長くしなやかな尻尾になった。
顔もどんどん変わっていく。耳はその形を尖らせながら頭の上に移動して、最後には綺麗な三角形を形作る。 鼻先は少しだけ先に尖りその周りには針のようなヒゲが外に向かってピンと背を伸ばす。変化のむず痒さに僕は声を上げた。
ミャァオ。
一瞬、僕は僕の声に驚いた。だって僕が知っている僕の声じゃなかったから。僕は慌てて服から這い出た。 そして僕はしっかりと4本の足でアスファルトの上に立った。その時僕は不思議と自然にその事実を受け止めた。
僕は1匹の小さな黒猫だ。
その金色の瞳を強く輝かせた後、すぐに細めてグッと伸びをする。その時横に1匹の猫がいることに気付いた。白く美しいメスの猫。 蒼い瞳を輝かせて僕を見ている。僕たちはすぐに仲良くなって歩き出した。僕達が初めて出会った日。
人間。
それが僕の本当の姿だった。僕は人間だったんだ。そのことに気付くと、僕の瞳の周りが涙で濡れていく。 あの日は自然に受け入れる事が出来たのに、今更僕は自分が人間から猫になってしまったことを悲しんだ。
何故僕一人がこんな目にあわなきゃいけないんだ。
僕が急に泣き出し、うずくまってしまったのを見て驚いたのか、白猫は慰めるように僕を優しくなめてくれた。ありがとう、 といって彼女の姿を見た瞬間、僕は一つ大事なことを忘れていたことに気がついた。
あの女の子はどうなったんだ?
あの日僕は女の子と一緒に家に帰ろうとしていた。その女の子も一緒に光に包まれたはずだ。光に包まれた僕は猫になってしまった。 じゃああの女の子は?・・・僕は言葉を失った。その様子に気付いたのか白猫は小さく鳴く。
やっと、思い出してくれたんだね。
いつの間にか彼女の美しい蒼い瞳の周りも涙で濡れていた。この白猫はあの時の女の子だったんだ。 僕は驚きのあまりその丸い目を更に丸くしていたが、しばらくして気持ちが落ち着くと彼女に問いかける。
君はいつ思い出したの?
白猫は何日か前に、と答えた。たまたまその時にこの学校の前を通った時に、僕と同じように記憶を思い出したのだと言う。そして僕が、 つまり黒猫が人間の時の友達だった男の子だって気付いて、僕をここに連れてきたのだという。
人間。
それが僕達2匹の本当の姿だった。2匹の猫は学校の前で身体を寄せ合い、お互いの身を確かめ合っていた。僕の横には白猫が、 彼女の横には黒猫がいる。その猫はかつて人間だったときの友なんだ。
これからどうしようか。
不意に白猫が問いかけてきた。僕は思わず、何を?と聞き返してしまった。白猫は少し不満げな表情を浮かべ、これからの私達2人のこと、 と答えた。
そうだね、どうしようか。
僕は答えた。不思議な感じだった。自分が人間だったことを思い出し、不条理に猫になってしまったことは悲しくて不安で一杯の筈なのに、 僕の心は不思議とそれをもう感じていなかった。僕の心はきっと今、凄く満ちている。
・・・多分、変わらないよ。
僕は少しの間の後にそう言葉を続けた。そうだね、だって私が私であることも、あなたがあなたであることにも違いはなにもの。 彼女も納得してそう鳴いた。じゃあ行こうか、と白猫は立ち上がった。すると僕の心はまたドキッとした。
あぁ、これが誰かを好きになる瞬間なんだ。
僕は本能的にそのことに気付いた。白く柔らかで、日の光を浴びて更に優しく輝く彼女の毛並みとブルーの瞳に僕の心は奪われていた。 そういえば人間だったときも僕は彼女に惹かれていた。あれは恋だったと今更ながら気付いた。
どうしたの?
動かない僕に既に歩き始めていた白猫は振り返り心配そうに見つめる。まだ気持ちの整理がつかないの、 と僕のことを案じる言葉をかけてくれた。僕はううん、そうじゃなくて、と鳴いた後、少し間をおき呼吸を整えた。そして鳴く。
君のことが好きなんだ。
自分でも思うほどあまりにストレートな言葉。まだ僕が若いからかもしれないし、 猫になった分だけ気持ちの表現に嘘や飾りが無いからかもしれない。彼女は蒼い瞳を、さっきの僕のように一瞬丸くしたが、 すぐににこやかに細めた。
よかった、私もいつ言おうかと思っていて。
今度はまた僕が目を丸くする番だった。白猫の言葉を聞いた僕は、心がまた満ちていくのを感じている。 不安や悲しみなんてもう何処にもなかった。
そして僕たちは恋人になった。
猫なのに恋人って言い方は正しくないのかもしれないけど、僕たちは猫の姿をしていても人だったことには違いない。猫だけど人間。 人間だけど猫。僕達2匹はそんな不思議な存在。
そして僕達2匹は歩き始めた。
いまだに僕たちを猫に変えたあの光のことは分からないし、もう考えるつもりも無い。事実は事実として受け入れる事が、 今の僕たちには出来た。2匹でいれば、悲しみも不安も全て消えていく。有るのは優しい感情だけ。
はっきり言える。
今はその季節じゃないけれど、僕たちは友以上の関係になった。僕と彼女は今のところ恋人だ。 そして今日も小さな路地を黒猫と白猫は幸せそうに歩いていく。
2匹の先に遮るものは無い。
2匹の関係 完
今回もありがとうございます。
★宮尾レス
カギヤッコ様コメント有難う御座います。
今回も宮尾風味全開でしたw
あと、最近何となく記憶喪失とか記憶障害に凄い萌えるのです(爆
多分、エリザを書いているからかもしれません。。。
王道なのはきっと僕がこの手のシチュを好きで仕方が無いからなのですね。