2006年03月10日

バロックに抱かれて

バロックに抱かれて

【人間→獣人】

「ハァッ、ハァッ、ハァッ・・・!」

 

細い路地裏、ビルに反響するのはすっかり上がり、切れ切れな僕の呼吸。

 

「ハァ・・・クソ・・・!落ち着け・・・落ち着けよ・・・!」

 

僕は自分に言い聞かせるためわざと大きな独り言を呟く。こんな状況でこんな大きな声を出すのは本来なら絶対やってはいけない事だ。 何故ならあいつらに気付かれてしまうから。でもそんな事今更関係ない。どうせいずれ見つかるだろうし、 今日はもうあいつらだってまともに動けないだろうから。

 

だから、兎に角落ち着け、僕。

 

僕は深呼吸をする。ゆっくりと息を吸い込み、吐き出す。そしてもう一度息を吸い込む・・・やっぱり、何本かアバラがイってる・・・ 肺が膨らむと刺さって痛みを感じる。でも・・・うん、大丈夫だ、大してダメージは無い。少し呼吸に気をつければ、 耐えられない痛さじゃなかった。念のためにわきの下に手を回し、多分折れているであろうアバラのあたりを触れてみる。・・・ これ位なら明日の朝には・・・。僕は手を当てたままゆっくりと空を見上げた。日は大分暮れかかっている。この時間帯なら・・・ 多分あいつらももう追ってこない。僕はゆっくりと再び歩みを始める。とりあえずこの小路をもう少し奥まで入ろう。 人目につかないところまで進んで、そこで今日はゆっくりと休みたい。僕はもう何日も身体を休めてなかった。 僕は最も奥にあった小さなビルの中に入ると、そのビルを更に奥に進み隅の壁にもたれかかるように座り込んだ。・・・ このまま眠る事が出来ればどんなに幸せだろうか・・・僕の頭をふと叶う事の無い願望がよぎった。何故なら僕は眠る事が出来ない。 もう何年も眠っていない。ただただ毎日追われるだけ。それでもまだ、ある程度まともな精神を保っていられる自分が正直怖かった。 まともな人間なら、まともな精神なんてとっくの昔に崩壊してしまっているはずだから。今はそういう時代だった。 僕はゆっくりと息を吐き出した。

 

 

 

世界が狂い始めたのが何時だったか、僕はもう覚えていない。多分僕が大分小さいころだったと思う。 いつものように過ぎてた日常があっという間に歪んで、気付いた時には僕の周りには誰もいなくなっていた。世界を狂わせたのはある病気だった。 その発端には環境汚染によるウイルスの突然変異説や、某国が作り出した細菌兵器説、或いは宇宙人の陰謀説や更には魔術説などなど、 色々議論を重ねられたらしいけど、その論議は感染してしまったものにとっては至極どうでもいい事であり、無意味だった。 しかしその病気は非常に危険視され、やがて世界はその患者たちを狩り始めた。大きく世界が変わってしまったのはこの頃からだったと思う。

 

僕が追われていたのは、つまり僕がその病気の感染者だからに他ならなかった。僕を追ってきたのは狩る側の人間だった。 世界からすれば僕は消したい存在らしい。でも僕にはそんな事は関係ない。だって僕は生きたいんだ。でもソレは狩る側も同じで、 彼らも生きるために僕を消したいらしい。お互い生きるために必死なんだ。でも、だからどちらも譲歩できる余裕なんて無い。 生きるという事にコレほどまでに必死になるなんて、かつての人々は想像もしていなかったんだろう。でも、今はそういう時代なんだ。

 

 

 

僕が眠る事が出来ないのも病気のせいだった。だから夜はじっとして、何もせず、何も考えず、ただゆっくりと、 永久に続くとさえ錯覚する長い夜が過ぎ行くのをただただ待ち続けるしかなかった。しかし、昼間ずっとあいつらに追われることを考えれば、 逆に夜のこの時間の方が心はずっと落ち着くことが出来た。きっと僕は闇が好きなのかもしれない。髪の毛も、日本人の中でも特に黒い方だし、 服も黒い地味なものを好んで着るし、実際今もそういう服装だった。黒は夜の闇に染まるから、何にも干渉されず僕が夜の一部になれる気がして、 少しだけ心地よかった。だから出来ればこの時間を邪魔して欲しくない。僕は夜はいつもそう願い、気配を消し、静かに夜の中に溶け込んでいた。 しかし今夜は運が悪かったらしい。ふと僕は自分が入ってきたドアの入り口に、人の気配を感じて顔を上げてそっちを見た。

 

「・・・誰?」

「いや・・・中々強そうな気配を感じてね・・・」

 

入り口に立っていた若い男はそういうとゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。僕は彼を見つめたまま小さな声で話しかける。

 

「悪いけど・・・僕はできれば休みたいんだ・・・君だってわかるだろ?」

「分かるけどね・・・俺はね、夜は休むよりも動いていた方が落ち着くんだよ」

「じゃあ他を当たってくれない?君の強さなら、他にも狙える獲物なんてたくさんいるだろう」

 

僕は彼の姿や、彼から感じる殺気や感情からとっさにそう口にした。髪は暗闇の中なのに、僅かな月の光だけで黄金色だと分かる。 その赤い瞳には、まるで僕に向けての闘争心をたぎらせた炎のようだ。彼は僕の言葉を聞くと、小さく鼻で笑って、言葉を続けた。

 

「やっぱなぁ、強いやつほど戦いに無常とか感じているから戦意が薄いんだろうね」

「・・・僕の場合、本気で疲れているだけだよ。買いかぶりすぎさ」

「・・・そんな事言われると、益々気になるね、その力」

 

彼はゆっくりと首元に手をあて上着を脱ぎ始める。そこに現れる鍛え上げられた強靭な肉体。 しかしソレは決して所謂筋肉隆々のごてごてしたものではなく、細身の彼の身体に洗練され引き締まった、非常にバランスの取れた体。 その身体を見て僕はまた呟いた。

 

「・・・十分強そうじゃないか、そのままで」

「ボクシングやってたんだよね、人間だった頃は」

「今も、人間だろ?一応、生物学的には」

「人間とは違うさ。俺達は選ばれたんだ」

 

選ばれた・・・か。僕は静かに心の中で彼の言葉を繰り返した。確かにそう思った時期もあった。 自分は感染したことで人間よりも優れていると、強くなったと、自分こそ生き残るチャンスを神に与えられた、選ばれた人間だと。 でもソレは誤解でしかなかった。昼間はあいつらに、そして夜は彼のような、自分と同じ感染者に追われる毎日。寝ることも出来ない。 その中で保たれ続けてしまう精神。もし神がいるなら、会うことができるなら、今すぐこの手で亡き者にしたい。 ソレが世界を崩壊させる引き金になったとしても、こんな世界なら無い方がいい。少なくても僕はそう思っている。彼はどうなのだろうか。 僕に対しての殺気を今まで以上にむき出しにしている今は、彼の本心なんて分かりえないし、正直分かったとしても仕方のないことだった。 しかし、それでも僕は最後に彼に聞く。

 

「・・・どうしても、やるのか?」

「今更・・・俺はもう止められないよ」

 

男はそういうと歩みを止め、大きく息を吐き出す。その様子を見て、僕は彼の言葉に、決意に偽りが無いことを悟った。やがて彼の全身が、 ゆっくりと軋みながらその姿を変えていく。彼の眉間に眉毛とは明らかに異なるオレンジ色の鮮やかな毛が噴出したかと思うと、 ソレは鼻先を覆っていき、その勢いに合わせるかのごとく、彼の鼻先はピンクに色づき徐々に前に突出し始める。 その周りからは針のように尖った白いヒゲが無数に伸びていく。鼻の下を基点に上唇は縦に割れ、 彼が一度大きく口を開くとそこからは人のものとは思えない大きな牙が姿を見せる。ソレを支える下あごは既にすっかり白い毛で覆われていた。 やがて耳もその位置を顔の横から頭の上へと移し、大きく尖り、まるであたりを警戒するかのように激しく動かしていた。 額と頬も毛で覆われていたが、それぞれオレンジや白の下地の上に筆で書きなぐったかのように黒い縞模様が彼の迫力を一層引き立てていた。

 

その変化は全身にまで及ぶ。彼の身体は更に引き締まり、余分な脂肪分などは完全に蒸発をしてしまったのではないかと思う。 そしてその全身にも黒と白、もしくはオレンジの細やかな獣毛の鮮やかなストライプが彼の身体を覆っていく。 その手の先からは黒く鋭い爪が長く伸び、手のひらには柔らかな肉球が生じていた。まるで人の手と獣の前足の、 ちょうど中間形態の様になった彼の手を、彼はゆっくりと握り締めた。気付くとその変化は足にも訪れていた。靴を破って出てきたのは、 手と同様に獣のソレだった。そしてズボンの後ろからは身体と同じ縞模様を持つ尻尾がゆっくりと、リズムを刻みながらしなやかに左右に揺れる。 そこに現れたのは、人の体躯に虎の頭と獣毛、身体能力を持つ虎獣人が立っていた。

 

「・・・綺麗だね、その姿」

 

月の傾きによって、窓からその光が差し込むと、彼のオレンジ色の毛は一層光り輝く。僕は素直に、心のそこからその言葉が出た。しかし、 男は別段嬉しくなさそうだ。彼にとっては自分の容姿など割合どうでもいいらしい。それよりも、僕のことが気になるらしかった。

 

「さぁ、お前の番だ」

「・・・言ったじゃないか、僕は休みたいって。昼の傷、ゆっくり癒したいんだ」

「だったら・・・戦いながら癒せばいいだろ!」

 

彼はそういって脚に力を入れ一気に加速し僕の目の前まで迫る。彼の拳は確実に僕を捉え、目掛けて振り下ろしてきた。 僕はとっさに地面を蹴り宙に浮き、壁を這っていた細いパイプを掴みぶら下がった。虎の拳は空を切り、そのまま僕がいた床を大きくえぐり、 粉々に砕け散った床のタイルの破片が粉塵のように舞い上がった。

 

「戦いながら癒すって・・・無茶言うね、君も」

「何言ってるんだ、元来俺達は戦い続けるために選ばれたんだ。全く無茶じゃないさ」

 

彼の言い分は滅茶苦茶なようだが、しかし事実僕たちに本来休んでいる暇なんて無いのだ。常に一日中戦い続けなければならない中で、 休んでなどいられなかった。そして今もまた、そうである。僕の久々の休みは、どうやら彼のためへの時間に費やすことになるようだ。

 

「まぁ・・・わかったよ・・・そこまで言うなら仕方が無い」

「そうこなくちゃな」

「でも、1つ言わせて貰うよ」

「・・・なんだ?」

「・・・後悔、しないでね?」

 

僕は彼にそう告げると、ゆっくりとパイプから手を離し、地面へと降り立つ。そして僕も上着を脱ぎ生身の上半身をさらけ出すと、 少しの間瞳を閉じ、心を落ち着かせる。そしてゆっくりと開いた僕の瞳が、赤い彼の瞳とは対照的に青く輝いた。僕の中の鼓動が、 徐々に高まっていく。平たく言えば、これは例の病気の発作だ。僕の中を血液が普段の何倍もの速度で循環していく。 その感覚は心地いいものでもある。僕はその恍惚に身をゆだねる。急激に自分の中に貯えられていく熱が、逃げ場を求める。 それは僕の体の変化として現れ始めた。

 

僕の鼻先が黒く変色し、前へと突き出していく。しかし彼の、虎のものと比較すると、ソレはより前に伸びイヌ科独特のマズルを形作った。 口元には鋭く尖った牙が姿を見せる。耳も尖り、頭の上でピンと山のようにそびえたつ。その肉体の変化に呼応するように僕の顔には、 僕の髪の毛のように漆黒の闇を思わせる獣毛が一気に覆っていく。その勢いはそのまま僕の身体全体へと及んでいく。指先は僅かに太く、 短くなり手のひらには肉球が生じていたが、やはり完全な獣の前足ではなく、人の手の面影を残した形となった。足もまた、 しっかりと太い爪が尖りがっちりと床を捉える。既にソレは人のものとは完全に異なっていた。 そしてズボンの隙間からゆっくりと毛の束がふわっと溢れたかと思うと、ソレは尻尾となりゆらりと左右に揺れる。

 

「成る程、ウェアウルフか。王道だね」

 

僕の姿を見た虎獣人が呟いた。彼のその言葉通り、今の僕の姿は人の体躯ながらも、狼の顔と特徴を持つ狼獣人の姿だった。 漆黒の獣毛に包まれた僕の身体は、人の姿のときよりも、より一層夜に溶け込む。暗い闇の中でただ2つ、 その瞳だけが目の前の虎獣人を捉え強く光る。そして次の瞬間、僕はさっき中に浮かんだ時のように地面を静かに蹴った。 ただその力の向きは上ではなく前に、つまり目の前の虎獣人目掛けてである。僕の身体は人間の姿のときよりもずっと軽く、 体重がという意味ではなく、動きがという意味で、僕と彼との距離は一気に詰まった。それに反応した彼はその鋭い爪を供えた手を振り下ろす。 僕も自分の腕を構え、彼の攻撃を受け止める。しばらくそのまま力比べのようになったが、しばらくして僕が彼の腕をはじく様に押し返した。 彼はその勢いを逆に利用して後ろに飛び跳ねると、僕との距離をとる。そしてその瞳に炎のような輝きを宿しながら僕に問いかけてくる。

 

「売りは速さか?」

「好きに解釈してくれて構わないよ」

 

一気に自分との距離を詰めてきた僕のそのスピードを警戒しているようだ。力負けしたことよりも、そっちの方を意識するところを見ると、 彼にとっては僕のスピードのほうが脅威に感じているらしい。元々ボクシングをしていたと彼は言っていた。 彼もまたスピードで勝負が決まる格闘技の世界にいたから、ソレが自分のほうが劣っているとなると不安を感じてしまうのだろう。 彼は少し呼吸を整えると、今度は彼の方から僕の懐目掛けて飛び掛ってきた。・・・しかし。

 

「・・・遅いね」

 

僕はつい、その様子を見、呟いてしまった。彼自身も懸念していたであろうそのスピードは、 僕からすればその動きを容易に見極め出来るほどのスピードだった。僕はむしろ余裕を持って再び上に飛び上がる。そのまま彼の拳は壁に当たり、 壁は大きな音をたててはじけ飛ぶ。再び細かく砕けた残骸がほこりのように舞い上がる。

 

「・・・!」

 

その破片のせいで視界が奪われる。成る程、彼の狙いはこれだったらしい。僕は彼の姿を見失い、彼の気配を耳と鼻、 そして全身を使って感じ取ろうとする。僕の身体はいまだ滞空状態。このままガードが出来なければ、 彼の不意の攻撃を受けてしまえば間違いなく一気に不利になる。堅い壁が一瞬で粉々に砕けるほどである。 いくら丈夫な獣人の身体だってただじゃすまないことは想像に難くない。

 

・・・大丈夫だ、落ち着け。この破片の、いわば砂煙の舞い上がりは、確かに視界そのものは悪くなるが、 一方で視覚的に空気の流れを掴みやすくなる点もある。全ての感覚を研ぎ澄ませ。空気の流れを見極めるんだ。 彼が動けば確実にそこには空気の流れが生まれるはずだ・・・!

 

「・・・っ、後ろか!」

「反応が遅い!」

 

空気の流れが瞬間的に変わったかと思うと、彼は既に僕の後ろに飛び上がっていた。確かに、僕の反応は彼の言う通り遅かった。しかし、 僕は何も反応が遅れたわけではなかった。何故なら、彼の動きはきちんと感じ取れていたし、身構えることだって出来た。 でもソレをしなかったのは、彼を誘い出すためだった。僕は彼の声が聞こえ、彼の位置を確認すると全身のバランスを、重心を軸に傾け、 後足に力を込めて彼目掛けて繰り出す。空中で逃げ場が無いのは僕だけじゃなく、彼も同じなのだ。同じ空中にいる状態なら、身体が軽く、 早く動ける僕のほうが少々有利だった。僕の蹴りは彼の腹部に見事命中し、彼は苦悶の表情を浮かべながら地面へと落ちていく。 僕は彼を蹴った反動で壁の方まで飛んでいき、そのまま壁を蹴り勢いをつけて落下していく彼に追いつくと、 その手の爪を更に尖らせて彼をそのまま地面に叩き付けた。

 

「ガァッ!!」

 

虎獣人は人とも獣ともつかないうめき声を上げた。僕はゆっくりと地面に着地したが、決して油断は見せない。 すぐさま倒れている彼の傍に接近し、彼の首筋に爪をつきつけ光らせる。彼は痛みからか、途切れ途切れの口調で吐き出すように語る。

 

「・・・やるならやれよ?コッチから仕掛けたんだ・・・覚悟は出来ているさ・・・一思いに・・・」

「覚悟の割りに・・・喋るね?」

「・・・いいから、早くしろよ・・・」

「やらないよ、僕は。別に君の命が欲しいわけじゃないし」

「・・・情けをかけるつもりか?」

「そんなんじゃないよ。僕はただ、休みたいだけなんだ。君が動かなくなって、大人しくしてくれれば僕は何もしない」

 

僕は彼にそう告げると、彼から手を離し、彼に背を向けてゆっくりと反対側の壁の方へと歩みを進める。 しかし途中で彼に話しかけられてその歩みを止める。

 

「・・・嘘だろ?」

「え?」

「・・・俺を殺さない理由、嘘ついてるだろ」

「別に・・・嘘はついていないよ。僕は本当にそう思ってるだけだから」

「でも、それだけじゃないはずだ。・・・戦いの一瞬でそんなことまで見抜けないほど、俺が弱いと思っているのか?」

「・・・」

 

僕は彼の言葉に言葉を返せずにいた。僕はゆっくりと彼の方を振り返る。そして僕の瞳を見て彼が言葉を続ける。

 

「お前・・・自分の手で殺すのを、いや、自分の目の前で人が死ぬこと自体を恐れているだろ?」

「・・・それが何?関係ないだろ」

「関係なくないさ・・・俺は、その程度の覚悟のヤツにさえ勝てなかったんだ」

「覚悟と・・・戦いの強さは関係ない」

「・・・3度目なんだよ」

「・・・何が?」

 

僕は、急に話を変えた彼の言葉に、応えるように問いかける。

 

「強敵に挑んで、ボロボロに負けたのに生き延びた回数。いつも返り討ちにあうのに、お前も含めてみんな俺を見逃したんだ・・・ ラッキーだと思わないか?」

「そうだね・・・分単位で誰かが死ぬこの時代だから、生きてることには感謝しなきゃ」

「前の2人とも・・・そうだった。強いのに、普段は戦おうとせず、ただ逃げ回ってるだけだ」

「・・・」

 

彼と会話がかみ合わない。もう彼は、僕に聞かせるためじゃなく、自分に言い聞かせるようにして言葉を続けている。

 

「3度目だ・・・3回もラッキーで生き延びるのか・・・はは・・・」

「・・・君は・・・」

「くそっ、俺は・・・なんて・・・なんて弱いんだ・・・!」

 

虎獣人は吐き捨てるように呟いた。彼の赤い瞳の光は滲んでいた。目の周りのしなやかな毛が濡れていく。 僕はそのまま視線をずらし彼に背を向け、反対側の壁まで歩いていき、ソレにもたれかかった。ビルの中には彼のすすり泣く声がこだましていた。 彼もまた、この歪んだ時代でまともな精神を保ってしまった1人なのだろう。少しでもソレを忘れるために、 戦いに明け暮れようとしたのだろうけど、その結果がこれなら確かに悔しいのかもしれない。力を求めた彼よりも、 力を求めていない僕のほうが強い力を持ってしまっている矛盾に、僕は僕で心を痛めていた。やっぱりこの世界に神はいないのかもしれない。

 

 

 

世界が狂い始めたのが何時だったか、僕はもう覚えていない。 世界を狂わせたのは感染すると人と獣の特徴を併せ持つ獣人の姿になってしまう病気だった。ソレもただ獣化するだけではなく、 感染者は睡眠をとらなくなる、正確に言えば睡眠の変わりに獣化することで身体に対して睡眠と同じ安らぎを得る身体になってしまうのだ。 その発端には諸説あるけど、そんなことは感染してしまったものにとっては至極どうでもいい事であり、無意味だった。獣化自体は、 確かに異形の扱いとしてそういう目で見られはしたが、決して何か問題があるわけではなかった。しかし睡眠をとらないというのは、 獣化によって心身ともに休まるといっても、結局は常に彼らは覚醒し続けているわけで、次第にその精神は暴走し始めた。 そして肉体的な強化と相まって獣人は普通の人間から非常に危険視され、やがて世界はその獣人たちを狩り始めた。 獣人全てが凶暴なわけではないのに、人は、脅威を排除せずに入られなかった。しかし、人も結局暴走を始め、 世界崩壊のシナリオはココに生まれた形になる。

 

獣化が睡眠の代わりとして作用するため、獣人たちが獣化するのはもっぱら夜が多かった。だから彼らは日中の間に獣人を狩ろうとする。 昼間に僕を襲ってきたのはそいつらだった。そして夜になれば、 獣の闘争心をむき出しにした獣人たちが生き残るためにお互いの命を削りあうという不毛な争いを始める。 こうして世界の人口は確実に減少し続けていくのだ。僕たちはそういう時代に生きている。

 

 

 

やがて漆黒の夜も、次第に上り始めたオレンジの太陽によってかき消されていく。結局僕たちは一晩中、向かい合ったまま、 お互いにアレ以上何か話すことも無く無言で向かい合う形で過ごした。太陽が僕たち二人を照らす頃には、すっかり身体も人に目覚め、 もとの人間の姿に戻っていた。僕は再び脇に手を回しアバラを確認する。・・・大丈夫、きちんと回復していた。・・・ 獣人になった唯一のメリットと僕が感じているのはこの超回復力ぐらいだ。どんな傷でも、致命傷でなければ一晩獣化すれば回復してくれる。 しかしソレは同時に、致命傷を受けない限り死ぬことが出来ないという意味でもあった。僕はふと、彼の方を見る。 僕が負わせた彼の傷もどうやら癒えた様だった。そしてビルの上のほうを見る。ガラスの割れた窓から日が差し込む。また一日の始まりだ。 僕は何気なく、彼に話しかける。

 

「また・・・今日が始まるよ」

「そうだ・・・な」

「・・・何時まで繰り返せばいいと思う?この日々を」

「死ぬしか・・・無いだろうな」

 

彼は落ち着いた口調で僕にそう言い放つ。勿論彼なりの皮肉だろう。自分よりも強いと認めた僕から出た弱音が、 彼にはどうにも歯痒いのかもしれない。ソレを悪いことだとは思っても、僕は元々こういう性格だし、こういうことしか考えていない。 運命から逃げ切れないことは分かっているのに、それでもまだ僕は抵抗を続ける。もしかすると僕には夢想家の傾向があるのかも知れない。 こんな時代においてもなお、どこかで人々が過ちに気付いて平和な世界に戻る日が来るかもしれないと。 しかし僕がそのために何か行動を起こすことも、そんな気も無く、ただただ毎日逃げ回り、 逃げ切れなくなったら相手が追いかけてこれなくなる程度にダメージを与える。確かに僕は獣人としては強いかもしれないけど、 心は弱い人間のままだった。

 

「・・・お前は強いよ」

「え?」

 

彼に突然そういわれて僕は思わず妙に高い声で応えてしまった。 自分の頭で考えていたことにタイミングよく彼の言葉が偶然にも意味が重なったことに、少し驚きを感じた、がすぐに落ち着いて応える。

 

「強くなんか・・・ないよ。もう、弱いことしか考えられない」

「でも、死んで日々を終わらせたいとは思ってないだろ?」

「え?・・・まぁ・・・」

「心か身体・・・どっちか弱いだけでもこの世界じゃ死んでいるさ・・・生きているのは強い証拠だよ」

「・・・でも」

「頼むから、これ以上俺に恥じかかせないでくれよ?お前が弱いとなれば、俺なんか益々弱いってことになっちまう」

 

彼は笑いながらそう言ったが、決して冗談だけで言っているわけじゃないことは僕にだって分かる。彼は負けてもなお、強さに、 力に貪欲だった。きっと、彼にとって生きているということは、強さを求めるということなんだろう。僕の場合はどうだろうか。 何を求めて生きているんだろうか。・・・きっと僕は何も求めていない。あえて言えば、さっきの通り、 いつか来る平和な日常を夢想しているに過ぎない。。そして、残念ながらあっさり死ねるほど僕は弱くないのだ。太陽が燦然と輝くのに、 そこに希望や未来は見出せない。それは、また逃げ回る時間の始まりを告げる光でしかないから。それでも僕は・・・。

 

「僕は・・・」

「・・・?」

「・・・僕は生きる。強い弱い関係なく、僕は生き残る」

「何のために?」

「獣は生きるのに理由は持たない。ただ生きて、その日が来るまで死と戦い続ける」

「・・・つまり獣として生きると?」

「そうじゃない、理由、なんて区切りで自分の命に線を引きたくないだけ」

「そうか・・・いや、やっぱりお前は強いよ」

 

彼は再び笑顔で僕を見つめる。僕は立ち上がり彼の傍に駆け寄るが、その時外から物音が聞こえた。 多分奴らが僕たちを狩りに来たんだろう。

 

「今日は朝から早いな・・・!」

「・・・一緒に逃げない?」

「え?」

 

僕の突然の申し出に彼は驚いた表情で僕を見返す。僕自身、とっさに言った言葉だったから、正直自分でも少し驚いていた。 でも僕は言葉を続ける。

 

「僕には・・・確かに力の強さはあるかもしれないけど、君みたいな心の強さが無い・・・僕と君と、 案外2人いて初めて丁度バランス取れるんじゃないかと思って」

「力と・・・心でか?」

「うん・・・ダメかな?」

「一緒に行動するのはただ目立つだけだ。余り賛成はしたくないが・・・」

「・・・やっぱり・・・」

「だが・・・俺も、やはり力が欲しい。何にも負けない強さが。・・・お前といれば何か得られるかもしれない」

「・・・じゃあ!」

「とりあえず、だ。何日か行動を共にしてみよう。俺とお前、2人でも逃げ切れるかどうか」

「・・・大丈夫、きっと、僕たちなら」

 

彼は僕の言葉を聞くとゆっくり立ち上がった。彼の言う通り、複数人で行動するのはそれだけ人目につきやすく、 行動も制限されてしまうため本来なら避けるべきだろうけど、僕は不思議とその心配をしてなかった。根拠は余り無いけど・・・ 戦って感じた僕と彼、それぞれの強さと弱さ。きっと僕たちなら巧く補える気がした。2人はそれぞれ昨夜脱ぎ捨てた上着を着込むと、 あいつらが襲ってくる直前にビルを2人で抜け出し、荒れ果てた街を走り始めた。

 

歪んだ世界の中で、僕たちはまだ抵抗を続ける。しかし、僕にとってこの出会いがきっと、僕と彼と、 そして世界を変える始まりになるような、漠然とした希望を持っていた。だからこの希望を失わないために、僕たちの戦いは今日も始まる。

 

 

 

バロックに抱かれて 完

posted by 宮尾 at 00:26| Comment(1) | バロックに抱かれて(獣人) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
な、なんてことだ!宮尾の小説なのに恋愛の要素が入ってないぞ!(爆

と、たまにはこんな作品も書いてみたりします。しかし、REBORN OF WIND以来なんだぁ・・・女性キャラが出てこない話ってw
Posted by 宮尾@あとがき at 2006年03月10日 00:30
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