2010年02月21日

2つ目の呪い

2つ目の呪い

【人間→獣】

by ドアーズ様

 しまった、取り返しの付かないことになってしまった。

丹精込めて錬金したプレートは、施術の瞬間にまるで板チョコレートのように真っ二つに割れてしまった。

その断面からはそのプレートと同じ翡翠色の液体がどろどろと流れ出している。

流れ出た液体は木の机の上をなめらかに広がっていく。

静かに燃える蝋燭が、まるでそれが墓石からにじみ出る悪意であるかのようにそれを照らし出す。

  しかし、なぜ失敗してしまったのか。

なにか不思議な力が働いたのか、それとも俺の力不足だったのか。

いや、そんなはずはない。木の床が呼吸する音も聞こえそうなくらい静かな夜なのだ。

集中する意識をかき乱すようなものはどこにもない。

しかしひとつの事実として、プレートは触媒としての役目を十分に果たすことができなかった。

 この行為の失敗。

つまりあの少女への、プレートをその魔法の触媒とする、ドラゴンの魂の欠片を用いた全身火傷の治療は失敗したのだ。

なんてことをしてしまったのだろう。今は眠っているあの子に、僕はなんと説明をすればいいのだろうか。

最後に見た、真っ白なシーツの敷かれたベッドに身を横たえる彼女の寝顔が頭に浮かぶ。

自分の無力さと無知さと不甲斐のなさに心が冷えた。

 何かが動くような気配を感じたとき、僕はプレートがバターのように溶け始めていたのに気づいた。

輪郭が崩れ、流れ出た液体と混ざり合って、その境界が失われる。

そしてそれは、まるで磁力に導かれるように緩やかに動き出し、一つの意味あるセンテンスを形作った。

 

"I NEヨD BODY"

 

 次に起こることを予感して、僕は唾を飲み込んだ。

すると、そのセンテンスはどろりと崩れ、もとの液体に戻った。

僕は机の角に置いてあった吸い取り紙と、20センチ四方ガラスケースを掴み取って、その液体を逃がすまいと飛びかかった。

しかし、時すでに遅しだった。

電話帳ほどの厚みのある吸い取り紙をそれに叩きつけようとしたとたん、

その液体は一気に蒸発し、同じ色の濃密な霧に姿を変えた。

僕は勢い余って、その霧の中を突き抜け、燭台をひっくり返し、壁に激突した。

虚しく叩きつけられた吸い取り紙がそこら中に散乱した。

手からガラスケースが滑り落ち、粉々に砕け散った。

 

 こうなってしまっては、僕にはもう手の打ちようがなかった。

扉を閉めても、窓を閉じても、あの気体となった魂の欠片は、

新たな宿り主を求めて、地の果てまで探し求めることだろう。

 しかし、今回は彼(もしくは彼女かもしれないが)は、その必要がなかった。

このとなりの部屋に、肉体の再生と再構築に最も適した、静かに眠っている16歳の少女がいるのだ。

しかも、彼女の心はひどく弱っていている。

僕が次の行動を起こす前に、その霧は扉と壁との隙間を通り、となりの部屋へ入ってしまった。

僕がその場から飛んで行って扉を開けた時には、もうすでに遅かった。

その霧の最後の一抹が、今まさに、彼女の鼻から体内へ流れ込んでいこうとしているところだった。

僕はベッドまで走って、その霧の端をつかもうとした。

しかしそれもむなしく、霧はとても静かに、彼女の体の中へ侵入していった。

 

 僕が彼女の右側、ベッドの長い辺の真ん中に 両肘をついてうなだれていると、彼女が静かに体を起こした。

彼女の首元にかけられた、真珠のような宝石でできたネックレスが軽く音をたてる。

僕は静かに顔をあげて、彼女の顔を見た。

彼女は静かに、辺りを不思議そうに見まわした。

そして、彼女の静かな瞳が僕を捉えた。

「失敗しちゃったのね」彼女はそう、呟くように言った。

彼女の瞳は僕になにを語りかけようとしているのか。僕はそれに耳をかたむけるのが少し怖くなって、

うつむいて自分の握られた手を見た。

「ああ、本当に申し訳ない」

僕は押しつぶされたような声で答えた、

「いいの、貴方が私に謝る必要なんてないわ。私が貴方に無理強いしてもらっただけなんですから」

「いや、でも……」

僕がそう言いかけると、彼女は僕の両手を取り、彼女の両手で優しく包み込んだ。

その手はどこか冷たかった。しかし、その柔らか手に僕はどこか救われた気がした。

僕はもう一度、彼女の眼を見つめた。

彼女は僕に向かってほほ笑んだ。

ここ2週間で彼女が見せた、一番穏やかで、優しいほほ笑みだった。

「ありがとう、許してくれて」

 

 部屋の明かりをつけて、僕は木の椅子を引っ張って彼女の真正面に座った。

彼女が静かに語り始める。

「私ね、あの大火事でこのネックレス以外全部なくしちゃったの。家族も財産も。

それに大切な物を失っただけじゃなくて、呪いを得てしまった。」

彼女の全身を覆っている、火傷の跡とケロイドのことだ。

「私、これでもそれまでは街で結構きれいなほうだったの。男の人から贈り物もたくさんもらったわ。

でも、この火傷を負って以来、男の人たちや、街の人たちが私を見る目が変わった。

まるでフリーク(怪物)を見るような眼で見てきたの」

僕はうなずいた。蝋燭の炎が小さく揺れた。

「全てを失ってから、私は必死になって働いたの。できることはすべてしたわ。食べていくために、家族を供養するためにね。

生きていくためだったから、どんな苦しいことでも我慢できたわ」

彼女が少し大きめに息を吸って、そして吐いた。

「でもね」

彼女の口調が少し重たくなった。

「私のことを前々から嫉妬していた女の人たちが、悪い噂を立て始めたの。

『あの子が不幸な目に会ったのは、今迄にたくさんの男の人たちを誑かせてきたから。当然の報いなのよ』ってね。

私は今まで、私にプロポーズしてきた人たちを手ひどく扱ったことなんて一度もなかった。

きちんと事情を説明して、然るべきことをすべてして、きちんと断ってきたわ。でもね、そんな中で、

私が憎かった人がいたのね。『そうだ、あの女に俺は誑かされた。そして俺は手ひどい仕打ちを受けた』

街中にそのうわさが広がったわ。私はもう、その街では暮らしていけなくなった。

工場長さんも、事務所長さんも私をまるで悪魔払いするように解雇したわ。

でも、悪い人たちばかりじゃなかったの。

生きる術を無くしてしまって絶望していた私に優しい手を差し伸べてくれた人達がいたの。

解雇されて、蓄えもなくなっちゃったある日ね、近所のエレーナおばさんがパンとミルク粥を持ってきてくれたの。

『悲しむためにも、お腹はいっぱいにしないとね』って。

他にも、肉屋のガルソンさんは私を何度か夕飯に招待してくださったの。「ひとりで食べることほど寂しいことはないよ」 って笑いながらね。

いろんな人達に元気づけられて、私はもう一度生きたいと思った。人を愛してみたいと思ったの。

それで私はこの町を出ることにしたの。

私のことを知っている人がいない遠いところへ、山と谷をいくつも超えた、話す言葉すら違うくらい遠いところへ。

もう一度、人生をやり直してみようって。

それで、きちんとした旅立ちのためにも、私はどうしてもこの呪を消そうと思ったの。だから、私は貴方のもとを訪ねたの」

僕は静かにうなずいた。

「でも、僕は君を治療してあげることはできなかった」

「それはもう仕方がないことよ、あんまりくよくよしないで。それに私、貴方には感謝しているんですもの」

「感謝?」

僕は自分の耳を疑った。

「貴方は、私の噂や、この姿に動じることなく、私に人間らしい敬意を払って接してくれた。変わらない敬意をね」

「そんなの、同じ人間同士、当然のことだろう?」

大切な事よね、本当に。と彼女は言った。彼女は、まるで大切なことを言うために言葉を選ぶかのように少しうつむいた。

 そして、彼女がそう言いかけた時だった、彼女は両手で口を多い、体を折り曲げて大きくむせ込んだ。

まるで塩素ガスを吸い込んだ時のような激しいむせ方だ。

「なんの魂を使おうとしたの?」

とぎれとぎれに彼女が行った。

彼女の顔色は、先とは比べようもなく悪くなっていた。

「ノースポール・フロイデル」

僕はどういう風に答えたらいいのか分からなかった。

ただ、その施術で使ったドラゴンの名前を上げることしか出きなかった。

 彼女はまた、体を曲げ、両手を口にあてて大きく咳をした。

彼女はぜいぜいと浅い呼吸をしていたが、なんとかそれを落ち着かせた。

そして彼女は、一つ大きな呼吸をして、口にあてた手をまるで讃美歌の譜面を持つような格好にした。

指の付け根の部分に、白い陶器の細かい小片のようなものが生えていた。

それはぞわりぞわりと、まるで草木の成長をスローモーションで見ているに、その範囲を広げていく。

彼女の肘のあたりでも、それと同様のことが起きていた。

肌が白く固まって、それが規則正しい形にわれ、ぴょんと持ちあがるのだ。

彼女のやわらかそうな二の腕も、固い鱗で覆われていく。

腕と目視できる限りの上半身が白い鱗で覆われつくした時、彼女の指の人差し指と薬指はまだそれで覆われてはいなかった。

すると、その指はまるで風船がしぼむように小さくなり始めた。その代わり、手首から一本、新たな指が伸び始めた。

両手のその二本の指がなくなり、それを補完するように他の三本が大きくなり始めたころ、

彼女の爪はぽろりととれ、代わりに、末で木の枝のように黒い、固そうな爪が生えてきた。

 彼女は逆らうこのできない大きな力に苦しんでいた。

僕はその奇妙な光景から眼を離すことができなかった。

ひとりの人間が抗いがたい力によって変えられていく。

彼女の人間とそれ以外の物の境界線から発せられるエネルギーに、僕は圧倒された。

 彼女が苦しさの余り、麻の貫頭衣を脱ぎ捨てた。

彼女の裸体が顕になった。彼女は荒い息をしながら、少し涙目になっていた。

そして彼女は自分の体を見回した。そして、

「ああ、私なんでこうしてしまったんだろう」、と押しつぶされ、震えた声で行った。

彼女の腹部は、細長い扇方の、象牙色の巨大な6枚の鱗で覆われていた。

彼女の腰から下、太ももの中ほどまで鱗で覆われ始めたころ、彼女の後ろに不思議な影が見えた。

それは、大きく育いく尻尾だった。それもきれいに鱗で覆われていて、規則正しく、先に行くほど小さくなる三角形の突起があった。

彼女大きく身震いすると、その大きな尻尾に引っ掛けられた椅子がごとり、と倒れた。

全身がすっぽりと鱗で覆われ始めたころ、彼女の背中から腕のようなものが生え始めていた。

 しかし、それが大きくなるにつれて、その指とも呼べそうな部分の長さの比率が、手のものとは大きくこのなっていくことに気付いた。

指と呼ぶには長すぎるし細すぎる、小指の部分が長すぎる。それは翼だった。

熱したガラスを伸ばすように、すうと延びていく。そして、皮膜を完成させた時には、 それは彼女の体を覆いそうなくらい大きな翼になっていた。

「うう……」

変化が首元まで来て、彼女は初めて声を挙げた。彼女は苦しそうに息を詰まらせる。

彼女の顔には苦痛の色が浮かんでいた。それはすべてを受容し、認めたかのような表情だった。

しかしそれでいて、まだやり残したことに対する思いを捨てきれないようにも見える表情だった。

 今、人間を捨てる時になって彼女はなにを思っているのだろうか。

 細い首がまるで木の幹のように太くなり、伸びていく。

伸縮性のない紐でできたネックレスの糸が切れ、あたりに丸い珠が散乱する。

彼女の人間でない足がいくつかの珠を踏みつぶす音がした。

彼女の顔にもついに変化が起き始めた。頬に3本、頭からも2本の角が目に見える速さで生え始めた。

頭と顔の付け根からは、エリが生え始め、耳がおかしな形に変形し始めている。

彼女の髪がハラハラと落ち始めるのと同時に、彼女の顔がぐぐぐと前へと伸び始めてた。

鼻がその変化の中に吸い込まれ、二つの鼻孔を残して上顎骨の中に埋め込まれてしまった。

ぎりぎりと延びていくうちに、唇は消え、彼女の肌はすべて失われた。

彼女は息を取り戻した、彼女の口から鋭い歯がちらりと見えた。

 彼女は二度深呼吸をした。そして水晶のように澄んだ瞳で僕の目を捉えた。

僕の前には、大きくて、真っ白な竜人がいた。ゆっくりと呼吸をしている。

彼女の目が扉の方を向いたので、僕達は扉を開けて外に出た。

彼女は音も立てずに、頭を打たないように体を少し折り曲げて外に出た。

丁度、東の山から白みかけているところだった。

外の空気が少しひんやりと感じられる。

彼女は、まるで新しい体にめいっぱい生命力を注ぐかのように、大きく伸びをした。

そして、地面を大きく蹴ると、そのまま大空へ舞い上がった。

僕は彼女がそのまま北の方へ飛んで行くのを、彼女の姿が見えなくなるまで見送っていた。

きっと、彼女は新しい人生をスタートさせたのだろう。

 僕が家の中へ戻ろうとしたとき、風に乗って遠い咆哮が聞こえてきた。

それは、僕たちの言葉で"感謝"の意味を持つ言葉の音節によく似ていた。

posted by 宮尾 at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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