Good luck! Dog run! 第4話
【人間→獣】
青く澄んだ空。そこを流れる白い雲。何処までも広がる緑の芝生。 普段決して珍しくなく目に出来るはずのものが今のミオには全て新鮮に見えた。
『・・・ん、普通の犬は居ないみたいだね。コレなら思いっきり走り回れるよ』
目の前のドーベルマン、チィカが辺りを見渡してミオにそう告げた。 そしてゴールデンレトリーバーはそのドーベルマンに寄り添うようにして彼女も辺りを見渡す。
『ホラ、私達と同じタグのついた首輪をつけている犬しか居ないでしょ?アレは全部人間が変身した犬ってことね』
『へぇ・・・』
自分の目の前を様々な犬が走り回ったり遊んだりしている。さっきフェンス越しにも見ていたが、 まさかこの犬達が実は人間だったとは考えてもみなかった。勿論今のミオも他から見れば一頭の犬でしかない。 時々不安になって自分の体を何度か見るが、間違いなくそこに有るのはゴールデンレトリーバーの身体だった。彼女が自分の体を見つめている時、 ふと隣にいるチィカに一頭の犬が声をかけてきた。
『あれ、リル久しぶりじゃない。今からなの?』
『そ、久々の気分転換にね。そっちはもう上がり?』
『うん、早くから来たからね』
その声をかけてきた犬の首輪についているタグから音が聞こえる。これがさっき言っていた制限時間を知らせる音のようだ。 その犬はその音が告げる終わりの時間に物足りなさを感じつつも十分満足できたといわんばかりの表情を浮かべていた。 そして一言挨拶を交わすと自分たちが今出てきた出入り口に入っていった。
『・・・ねぇ、さっきあの犬、チィカのことリルって呼んでたけど・・・何で?』
『あぁ、あれ?まぁ・・・簡単に言えばこのドーベルマンの名前ね』
『・・・犬の?』
『ほら、書類に犬の名前書く欄があったでしょ?一応普通の犬と同じように登録が必要なわけだけど、飼い主・・・ つまり自分の名前と犬の名前が一緒じゃおかしいでしょ?』
『・・・確かに』
『それにここにはプライベートで来ている人も多いから、犬の名前は・・・まぁ、 ペンネームとかハンドルネームとかの類のようにして使っているわけ』
『成る程ね・・・じゃあ私も何か名前考えなきゃね』
『だね。・・・でも、折角ドッグ”ラン”に来ているんだからさ、まずは走り回ってその身体に慣れなきゃ』
それもそうだ、とミオは相槌をうち、そして広大な芝生をしっかり四つ足で掴み、そしてそれを力強くけりだす。 すると景色がぐんと後ろに流れる。続けてリズミカルに四本の足で順番に、器用に大地を蹴っていくと身体はどんどん前に進んでいく。 そして風が全身の毛をなでていく、その感覚がなんとも言えず快感さえ感じていた。毛で覆われているとはいえ、 言ってしまえば今のミオは当然全裸の状態である。まだ初めてだから少しの羞恥心は有るものの、 それ以上に身に何もまとわず広い敷地を走り回るこの開放感から得られる快感に比べれば、そんなものなど些細なものだった。 2匹は始めただ走り回っているだけだったが、いくら楽しいとはいえそれだけでは限度があり、次第に追いかけっこをしたり、 また犬の体の感覚を覚えるためにじゃれあったり、本当に軽くであるが噛み付いてみたりなどした。ミオにはこの幸せな時間がとても長くも、 短くも感じていた。しかしなれない身体であるために流石に身体が疲れてきたのか、 フィールドの端の方に2匹並んで伏せるようにして休むことにした。
『ハァ・・・ハァ・・・』
『どう?少しは気分転換になった?』
『うん・・・チィカ・・・あ、じゃなくて・・・』
『リル、ね』
『リル・・・ありがとう。』
『はは・・・私もね、前に凄い落ち込んだことがあって。』
『あぁ・・・そういえば大分前にそんな時あったよね』
『そ、あの時。たまたまここの存在を知ってね。それ以来ここの常連てわけ。ミオも気に入ると思ったよ』
『うん、私も常連になりそう』
ミオは前足に力を入れるとグッと伸びをして、そして再び身体を伏せる。
『この身体も・・・結構好きだし』
『ほんと綺麗だよね。人間のときのミオも悪くないけど、それ以上だよ』
『・・・それはそれで微妙だな、嬉しいけど』
2匹は伏せたまま芝生の上で色々些細な話をしたりもした。不思議なもので犬の姿というだけでその会話さえ新鮮なものだった。 しかしその時、リル・・・チィカの首につけられたタグからけたたましい音が鳴り響いた。
『あ・・・』
『時間切れだね。私の方が先に変身したからね』
ドーベルマンは立ち上がると全身に力を入れて身震いした。
『じゃあ私、先に戻っているからね』
『わかった、私はもう少しここにいるね』
『了解!いくら楽しいからって、タグが鳴ったら戻ってこなきゃダメだよ?』
『分かってるって』
そしてドーベルマンは出入り口の方へと走っていった。ミオはその後姿を見送った後、首を上げて空を見上げた。 雲はいつの間にか流れていきいっぺんの曇りも無い青空が広がっていた。しかしそのうちどうも首にむず痒さを感じ始めた。 今まで走り回っていて夢中で気付かなかったが、慣れない首輪がどうもかゆくて仕方が無かったのだ。ミオは後足を上げると首元を素早く掻く。 するとその時、突然前から声をかけられた。
『悪いけど、隣いい?』
『え?』
ミオは声の主の方を見る。目線の先にはオスのシベリアンハスキーがこちらを見つめて立っていた。 その首とミオは後足を下ろし首を傾げてみせる。
『・・・何?』
『いや・・・普段俺がそこでよく休んでるんだけどね。場所的に好きなんで』
『そうなんだ・・・どうぞ』
ハスキーはそのままミオの横に座り込み天を仰いだ。しばらくそのまま無言で空を見詰めていたが、 ふと首を下ろしミオのほうを振り返り話しかけてきた。
『・・・初めてみる顔だけど・・・?』
『うん、今日始めてここに来たの。貴方は・・・結構長いの?』
『いや、俺も・・・4回目ぐらいかな?』
ミオはそんなハスキーを見つめ返した。改めてその姿をよく見る。足や腹、顔までを雪のように白い毛で、一方頭から背中、 尻尾までを黒い毛で覆われている。 ピンと尖った耳が辺りの様子を伺うようにぴくぴくと動き額には黒い毛の中に十字架のような白い模様で毛が生えていた。 そしてすっと伸びたマズル。・・・犬の視点からなのだろうか、ミオにはそのハスキーがただの犬としてでなく、 1人の男性として目に映っていた。端整の取れたその顔は、結局犬の顔であるはずなのにミオの心に何か惹きつけられるものがあった。 始めてあったはずなのに、何か運命のような・・・前から知っているような・・・。
・・・ドクン・・・
(・・・あれ・・・?)
ミオは自分の鼓動が、また力強く脈打ったことに気がついた。しかしその鼓動は物事に期待を抱いた時との興奮とも、 変身の時の快感とも異なった。この感じは・・・例えば、格好いい男性と出会った時のような・・・。
(・・・チョット待って・・・私・・・もしかして・・・一目ぼれしてる!?)
『ねぇ、ところで君の名前は?』
『わっ、え、えぇ、何?』
ミオはそんなことを考えている時にいきなりハスキーに話しかけられて驚いてびくッと身体を動かしてしまい、 それを見たハスキーは逆に驚いた表情を見せた。・・・まさかミオが自分に対してそんなことを考えていたことなどまるで気付いていないだろう。 ミオは自分の顔が興奮で赤らむのが分かったが、毛で覆われた今の彼女の顔ならそれが相手に伝わらないことで少しほっとしていた。 そして今ハスキーから効かれた質問を聞き返す。
『え、あぁ、名前?・・・名前ね、まだ決めてないんだよね』
『・・・そうか、初めてっつってたね』
『そういう貴方は?』
『俺か?俺はガイアって名乗ってる』
『ガイア・・・いい名前だね』
なるほど、大地をしっかりと掴むその力強い肉体にはよく似合った名前だった。ミオは彼の身体を見つめてそう考えていた。 体つきもしっかりとしていて男らしかった。
『・・・私も自分の名前考えなきゃね』
『あぁ、時間切れになる前に決めた方がいいぜ』
『でも・・・どんな名前がいいかな・・・?』
ミオは頭の中で色々な単語を浮かべてみる。自分にあった名前・・・何がいいだろうか? しかし中々コレといっていいものが浮かばなかった。行き詰まってしまったミオは、ふとガイアのことが気になり彼を見つめて問いかけてみる。
『・・・貴方は?何でガイアって名前に?』
『うーん・・・特にコレといって理由は無いんだけど、昔っから好きな単語だったんだよね』
『そっか・・・ねぇ・・・聞いてもいいのかどうか分からないけどさ、』
『ん、何?』
『何で、この店にきたの?自分で来ておいてなんだけど、コレって結構特殊な部類に入るじゃない?』
『そうだな・・・知ったのは偶然だったんだけど・・・来ようって決めたのは・・・自分が嫌いになったからかな?』
『・・・自分のことが・・・?』
ミオはガイアの顔が急に何だか暗くなってしまったのが分かった。
『・・・ひょっとして、聞いちゃいけないこと聞いちゃった?』
『・・・いや、大丈夫。そのためにここは、本名名乗らないんだし。別に話しても減るもんじゃないからね』
『・・・ならいいけど・・・』
『まぁ・・・要は日常がイヤになったんだよね。よくある話だけど。そんな時、 人としての自分を忘れて犬になるのも悪くないかなって思って』
『私も同じ感じかな。嫌なこと多くて・・・でもここに来て、凄くよかった。すっかり気分転換できたし』
『よかったじゃないか、そう思えるっていうのは』
『・・・貴方はそう思わないの?』
『確かに、ここに来てよかったと思っているけど・・・』
『・・・けど?』
『要は・・・受け取り方の問題なんだろうけど・・・犬としての自分を楽しんでいくうちに、 人間としての自分がどんどん下らなく思えてきちゃって・・・さ』
ガイアは再び空を見上げて何かを思う表情を浮かべる。ミオはそんな彼の瞳を見つめる。空の色を映すその青はどこか寂しげだった。・・・ その時視線を何気なく下に目をやる。すると彼の右前足の付け根、 人で言うところの肩から背中にかけての小さな範囲が毛が薄くなっていることに気付く。それを見てミオは、自分の左肩の部分を見てみた。 すると、長くしなやかな毛で覆われた彼女の体の中でその部分だけ、彼と同じように毛が薄い部分があった。あの事故で出来た傷である。 人間の姿に傷があると、犬の姿にもやはり影響があるらしい。ということは、彼も同じような傷を持っていることになる。
(偶然・・・運命・・・?)
ミオはそのことが気になり彼に更に聞こうとするが、その時彼女のタグが音を響かせる。
『あ・・・私、もう時間だ・・・』
『そっか・・・』
『・・・ごめんね・・・初対面で嫌な話させて・・・』
『いや・・・むしろ自分の気持ちを誰かに言えて・・・少し楽になったぐらいだよ』
『・・・ありがとう。じゃ、私行くね』
『ああ、またな』
またな、という彼の言葉が彼女の心に強く響いた。そう、ここに来ればまた会える。彼女にとってここに来る意義がまた一つ見つかった。 ミオはそのまま立ち上がりニ三歩前に歩いたが、突然ぴたっと立ち止まり、まだ伏せていたガイアの方を見て小さく呟いた。
『・・・ルナ・・・』
『え?』
『・・・私の名前。ルナにしようかなって』
『へぇ、いい名前だと思うけど、何で?』
『私も、貴方に見習って好きな言葉を、何となくね』
『そうか・・・じゃあルナ、また今度来た時は走り回ろうな』
『うん、ガイアも元気出してね』
ミオ、いやルナはそう言って出入り口めがけて走り出した。
(月はずっと地球のそばに居続ける・・・私も・・・ガイアのそばに・・・いたいから)
彼女は走りながら自分の心の中で、自らの名前のことを考えていた。冷静に考えれば、 犬に恋愛感情を抱いてしまうのは少々おかしな話だが、自分も彼も犬に変身している人間である。 同じ条件の下相手に恋愛感情を抱いても別に不思議ではなかった。それに、彼にその思いを抱いたのは確かに一目ぼれであったが、 本当に彼を想うのは彼のその力強くも儚くもある彼の心を感じたからだった。彼のそばにいたい。 もし自分に少しでも彼の心を安らげることが出来れば。決して自惚れでは無く、本気で彼のためになりたいという、彼女なりの思いであった。 彼女は彼のそばにいたい。だから自分も彼にとってそういう存在になりたいという願望でもあった。
(また今度・・・今度ガイアに会ったときは・・・少しでも彼と楽しめたらいいな)
そしてルナは出入り口に入り、そこから自分のロッカーのところまで歩いていく。するとそこには既にリルの姿から元に戻り、 すっかり服を着終えたチィカの姿が居た。彼女は手に持ったバスタオルをルナにかぶせる。
「お帰り。そろそろ効果が切れて人間に戻ると思うよ」
人間の言葉でチィカは目の前のゴールデンレトリーバーに語りかける。彼女の言葉の通り、直後に変化は訪れた。
・・・ドクン・・・
(来た・・・!)
それは犬に変身した時と同じ鼓動。身体全身に変身に耐えるための血液を送るために活発になる全身の動き。体温が次第に高くなり、 やがて変化が訪れる。
「クゥン・・・!」
レトリーバーの口から小さな鳴き声が度々漏れる。次第に体つきが変化していく。全身の毛が抜け、身体の大きさが一回り大きく、 丸みを帯びていき、指や手足が徐々に長くなり、2本足で歩くのに適したバランスを形作っていく。 一方で尻尾は短くなっていきやがて完全に彼女を覆っていたバスタオルの中に隠れるほどの長さになり、 最終的にはすっかり体の中に消えていった。そして尻と胸は柔らかく優しく豊かに丸みを帯び、 その2つを結ぶ腰のラインは緩やかな曲線を描きくびれていく。顔もやがて前後に短くなっていき、ルナの顔からミオの顔に戻っていく。 そして頭の上からは長くしなやかな黒髪がふわっとゆっくりと垂れおちた。 そこにいたのはバスタオルがかけられただけで殆ど全裸の状態でうつぶせになっているミオの姿だった。
「ハァ・・・ハァ・・・チィカ・・・ただいま・・・」
「あぁ、無理しなくていいよ。初めてだと体力の消耗激しいし。鍵はかかってるから他の人は入ってこないし」
「うん・・・有難う・・・」
ミオは途切れ途切れの呼吸でチィカに返事をした。しかし、その身体にある疲れは決して苦痛ではなく、 むしろ何かをやり終えた達成感に似たものを感じていた。 ミオはそのままゆっくりと身体を起こしバスタオルで身体の前を隠すと壁を背に寄りかかった。そして天井を見つめるが、 彼女の心の瞳に映るのは天井ではなく彼と見た、彼の瞳と青色の空だった。広くすんだその空に雲は似合わない。 少しでも彼の雲を晴らしていきたい。そしてそれは彼女自身の心を晴らすことに繋がっていく。 やがてミオは少し落ち着いた身体をゆっくりと動かすと、ロッカーをあけ服を身につける。 そしてテーブルの上に変身の前にリッコに渡された書類を広げ、ペンを握ると犬の名前を書く欄にしっかりと”ルナ”と書いた。
Good luck! Dog run! 第4話 完
第5話に続く
いつかはミオも人間としてのガイアと出会うのか、そして、ミオとルナの二重生活(?)の行方は…。
互いに人としてと言うのもありですし、強引に不可逆(事故か、あえて選択か?)で犬としてもあり…。
何げに気になる展開になりそうで。この辺りはさすが宮尾さんですね。
次回も楽しみです。
レトリバーになってはしゃぎまくるミオ、いいですね〜。犬同士の会話もいい感じです。
自分はガイアはもしかして…などと勝手に考えております。続き楽しみにしております。
コメント有難う御座います。
ミオ=ルナとガイアの関係はこの物語の鍵ですね。2匹がどのような運命をたどっていくか描ければと想っております。
都立会様>
コメント有難う御座います。
>ガイアはもしかして…
もしかしなくても、多分予想通りだと思います。バレバレのほのめかしですが、当人たちはまるで気付かないのが少女漫画の常でw