聖都のキマイラ #2-1
【人間→獣】
俺の傍には、いつもあいつがいた。
あいつの傍には、いつも俺がいた。
ウィル・トライとディア・パレス。2人は幼馴染として、ハンターとしていつも一緒にいることが当たり前だった。今までだって、 これからだって、ずっと2人は同じ道を歩んでいく。そう信じていた・・・そう思い込んでいた。
でも、俺達が2人一緒にいることよりも、もっと絶対的な”当たり前”のことがあった。
出会いがあれば必ず、別れがあることを。
でも、それはずっと先の話だと思っていたし、きっと戦いの中で死に別れるとか、そんなことを考えていた。
そういう別れしか、考えていなかった。
『ウィル・・・』
『ん・・・あぁ、何だ?』
不意に、優しい声が俺の名前を呼んだことに気付き、俺は小さな唸り声・・・獣の声を上げながら声のした方を振り向いた。そこには、 赤い鱗を持つ小さなドラゴンが、その口元を血で更に赤く染めながら、俺に微笑みかけるようにしてたたずんでいた。
『今日の獲物・・・獲ってきたよ』
『・・・それは・・・何の肉だ?』
赤いドラゴン、ファースの足元には、血の滴る新鮮な獣の肉が置いてあった。しかし、既に毛は剥がれ、脚や頭もなく、 獣の形はとどめていなかったため、一体何の肉なのかは既に見た目だけでは判別できなくなっていた。
『言ったら・・・多分、食欲なくすよ?』
『・・・じゃあいい』
俺はそういうと、すっと立ち上がる。・・・勿論4本の脚で。立ち上がった瞬間にまだ、違和感を覚える。 ついこの間まで手と呼んでいた前足を、少しだけ上げて見る。・・・指先から鋭い爪が飛び出し、甲は毛で覆われ、裏は肉球がある。当然、 ものを掴むことなど出来ない。
『・・・獣らしく、このまま、生の状態でむさぼりついた方がいいか?』
『な、何言ってるの!?・・・そりゃウィルは、姿は獣だけど、仮にも聖なる獣、聖獣なわけだし、元々は人間な訳だから、 無理しなくても・・・!』
『・・・冗談だ』
『・・・目が笑ってないよ・・・』
『ファース、マスター・トライの心中を察するべきですわ。・・・マスター・トライにしてみれば、人間だった自分が、 獣の姿に身を落としてしまった事が、惨めで哀れなのでしょうから』
『はっきり言ってくれるな、リーザ』
俺達の会話に割り込んできたのは、白くて長い毛に覆われた美しいドラゴン、リーザだった。その綺麗な姿、綺麗な声とは裏腹に、 言葉にはどうにもトゲがあって、しかも妙に的確なことを言ってくるから、癪に障る。
『一般論として、そうじゃないかしらという意見を言ったまでですわ』
『・・・じゃあ、お前の心中を察した言動を取るべきか?』
『・・・ご勝手に』
白く小さなドラゴンは俺から目をそらし、哀しそうな目をして俯いた。
『・・・俺についてきてよかったのか?』
『私は邪魔と言う意味かしら?』
『そうは言っていないだろう。・・・ただ・・・』
ディアの傍にいてやらなくていいのか?
そう聞こうとしたが、リーザの悲しげな目を見ていると、なかなかそれが切り出せなかった。俺が黙り込んでしまったため、リーザもまた、 俺が何を聞こうとしたのか察したらしく、その小さな口をゆっくりと、重々しそうに動かした。
『・・・怖くなりましたの』
『怖い?』
『・・・マスター・トライが聖獣の姿に変わってしまったのを目の当たりにして・・・私もいずれは・・・、マスター・パレスも、 或いは聖獣の器に認められたとしたら、私はマスター・パレスを聖獣の姿に変えなければならない・・・!』
『・・・お前も、聖獣の欠片なのか?』
『今この世界に存在する全ての精霊は、いずれかの聖獣の欠片なのですわ』
『精霊と契約している連中は・・・みんな聖獣になっちまうかもしれないってことか?』
『可能性は・・・低いのですけれど』
『・・・ゼロじゃないってことか』
リーザはそっぽを向きながらも小さく頷いた。・・・信頼してくれていたディアを裏切ってしまったせいなのか、 それとも今までディアを欺き続けてきたことへの罪の意識なのか、リーザの表情は益々曇っていった。
『そんな表情しないでよ、リーザ』
『・・・ファース』
『リーザが哀しい表情だと、僕も哀しくなっちゃうから』
『・・・ごめんなさい』
ファースに声をかけられて、リーザの表情が少しだけ落ち着きを取り戻したかのようにも見えた。 ファースはリーザに優しそうな笑顔を浮かべた。・・・だけど、その笑顔も何処か辛そうだった。
・・・俺への、罪の意識だろうか?
『さ、二人とも。早く獲物食べようよ。あ、焼き加減は注文受け付けるよ。レアでもウェルダンでも、何でも言っていいよ?』
赤い小さなドラゴンは、目一杯の笑顔を浮かべて言った。何かを、振り払うかのように。
『さっと炙ってくれれば、それでいいよ』
『え?・・・ウィルがそれでいいなら・・・』
ファースは、少し戸惑った様子で俺の顔を覗き込みながら応えた。
ファースはずっと俺と連れ添ってきたパートナー。だから、俺の好みだって知っている。肉は、 しっかりと焼いたウェルダンが好きなことを。しかし、今はどうもそういう気分にはなれなかった。食欲自体が、そもそも殆ど無い。 腹は減っている。空腹感は確かにある。・・・でも、俺の胸につかえた、獣になってしまった不安や悲しみが、 俺自身の欲求を狂わせているのかもしれない。
でも、それでも何かを食わなきゃ身体がもたない。どんな状況でも、どんな身体状態でも、どんな精神状態でも、 ある程度の体力を維持できなくては、ハンターは務まらない。
・・・ハンターは。
『・・・ハハッ・・・』
思わず、乾いた笑いが口をついた。・・・この期に及んで、俺はまだ、自分の事をハンターだと思っている事実が、おかしくなった。
ケルベロスの炎に身を焼かれ、獣に成り果て、ハンターとしての資格を取り上げられたというのに。
『・・・ウィル、出来たよ』
『あぁ・・・ありがとう』
ファースが、自らの炎でさっと焼き色を付けてくれた肉が、俺の前に出された。1kgは有るぐらいの、割とまだ大きめのブロック肉。・・ ・目の前にして、ようやく消えうせていた食欲が少しだけ戻ってきた。
『食べなきゃ・・・体が持たないもんな』
思えば、2日間もずっと寝ていたのだ。身体が栄養を欲するのは当然のことだった。・・・たとえ、聖獣だとしても、 そのあたりは変わらないようだ。
『・・・ナイフとフォークは無いのか?』
『え・・・?』
『冗談だよ』
『・・・だから、冗談なら・・・笑いながら言ってよ・・・』
ファースは少し困ったような表情を浮かべながら俺のことを見返していた。俺はようやく、 犬の顔で慣れない笑顔を無理に作りファースに微笑んで見せた。そしてすぐに笑顔をやめて、肉に顔を近づける。香ばしい匂いが、 敏感になった鼻をつき、満腹中枢を刺激する。そして肉をとろうと、思わず前足を伸ばした。
『・・・あっ・・・』
・・・自分の行動に、俺は自嘲気味に鼻で笑った。物を持つことが出来ない、前足と化した手。でも、俺はまだこれを手だと思い、 物を持てると思っているのだ。潜在意識の何処かで。10数年生きてきた中で培ってきた”当たり前のこと”だから、 仕方が無いといえばそうなのかもしれないが。
俺は一つ深呼吸をして、伸ばした前足をそのまま肉に添えて、前に伸びた口を大きく開いて肉にかぶりつき、食いちぎった。文字通り、 獣の様に。
『・・・おいしいよ、ファース』
『・・・そう・・・よかった』
赤いドラゴンがまた俺に対して優しく微笑み返すと、俺の胸はぎゅっと締め付けられた。・・・辛いのは俺だけじゃない。 むしろファースは、罪の意識に苦しみながらも、俺に気を使っている。その小さな身体に、精霊としての使命と、 俺とパートナーであるという絆との間で、揺れ動き、もがいているんだろう。ファースの笑顔は、そういう笑顔だった。
『ファースは、マスター・トライに甘すぎますわ』
不意に横からリーザが強い口調で割り込んできた。表情はまだ不機嫌そうだ。試しに、ストレートに聞いてみる。
『不機嫌そうだな』
『・・・あなたは随分と落ち着いてらっしゃいますね、マスター・トライ。宿屋で目覚めた直後のうろたえぶりと比べると』
『そうだな・・・何かこう、諦めに近い感情なのかもしれない。何をどうしたって、人間に戻れるわけでも、 この胸につかえたもやもやを消せるわけでも、ファースやケルベロスを許せるわけでもない』
俺はリーザを見ながら、淡々と話した。横目で、申し訳無さそうにうな垂れるファースが目に入ったが、あえて気にしないようにしながら。
『許せない・・・ものかしら・・・?』
『・・・そこまで俺は、優しくもない。・・・でも、ファースが俺のことを案じている気持ちも分かるから、 こいつが俺の傍にいてくれる以上、俺はもうファースのことを責めたりするつもりは無い』
『・・・パートナーは、一緒にいるべきでしょうか?』
『後悔、しているのか?』
『・・・マスター・トライだって、マスター・パレスと一緒にいたいんじゃなくて?・・・それなら・・・私は・・・!』
『・・・いい』
白い竜が何か意を決した表情で話そうとしたから、俺はそれを遮るように、小さな声で、だけど強く声を上げた。 白い竜ははっとした表情で俺を見上げて、少し黙って見つめた後、再び俯いてしまった。
『・・・今回のことで、皆の心が少しずつ傷ついたんだ。・・・だけどもう、これ以上傷ついたり、思いつめたり、 追い込んだりする必要なんて無いと、俺は思う。・・・俺はケルベロスであることを受け入れた。 ファースは俺をケルベロスに変えた罪の意識を背負うことを受け入れた。リーザは、ディアとの別れを受け入れた。・・・ディアは・・・ 俺を殺して、バースの町を守ることを受け入れた。・・・皆・・・自分の新しい運命を受け入れたんだ。・・・これ以上、掻き乱す必要なんて・・ ・何処にも無い・・・』
言葉を選びながら長々と喋る俺のことを、リーザは・・・そして横にいたファースも、黙って聞いていた。・・・俺達の歯車は、 少しずつ傷ついて、もうかみ合わなくなってしまっている。それでも、かみ合わないなりに運命は動いている。それをどう動かすかは、 これから俺達自身で考えていかなきゃいけない。だからこれ以上、話を難しくしたくない。・・・それが本音でもあった。それに・・・。
『それに・・・ディアには俺と同じ・・・獣になってしまうという・・・辛い思いはさせたくない。・・・その願いは、俺もお前も・・・ 同じだろうし。・・・ファースもお前には、多分、パートナーを獣に変えてしまったという罪の意識をお前には背負ってほしくないと思ってる。・ ・・だろ?』
『え?・・・そりゃあ・・・やっぱり・・・』
不意に俺に話題を振られたファースは、少し考えてから、リーザのほうをチラッと見て答えた。
『だから・・・これでよかったんだ。これで・・・この状態で、これから俺達がどうすれば生きていけるのか。 ディアとバースを救えるのか。・・・これから考えていこう。時間は無いのかもしれないけど』
『・・・』
リーザは黙ったまま、言葉を返すことも、頷くことも無かった。ただじっと地面だけを見て、何かを考えているかのようだった。 俺は少しだけ顔を上げて空を見た。哀しいぐらい、星が綺麗に輝いていた。もう、そんな時間だったのか。
『・・・もう暗くなったし、さっさと食べてさっさと寝よう。・・・明日のことは、明日考えよう。・・・な?』
『・・・そうだね。ほら、リーザの分も肉を取り分けたから、早く食べよ?』
動かないリーザを心配してか、ファースは優しい声でリーザに語りかけた。しばらくしてようやくリーザは小さく頷くと、 ファースが差し出した肉をゆっくりと食べ始めた。
やがて俺達3匹全員、肉を食べ終えてそのままゆっくりと眠りにつくことにした。
『・・・このまま寝て、危なくないか?』
全身を伏せながら、俺は自分の横で丸くなろうとしていた赤い竜に問いかけた。
『獣たちは、聖獣であるケルベロスを恐れて襲ってはこないし、人間相手なら例え奇襲されても遅れを取ることなんて無いだろうし』
『・・・油断すると痛い目を、みるぞ?』
『・・・それも、冗談のつもり?』
『いいや、皮肉さ』
俺の言葉に、ファースは特別反応を示さなかったが、どこかその様子がどんよりしたことはすぐに分かった。
『・・・悪かったよ、機嫌直せって』
『ううん、機嫌は悪くなんて無い・・・謝らなきゃいけないのは・・・むしろ』
『いいから、寝るぞ?』
『ウィルから声をかけたんでしょ?』
『ほらほら、いいから寝る寝る』
『ったく・・・』
赤い竜は、不機嫌そうに口を尖らせながら再び丸くなる。・・・それを見て、俺はもう一言だけ、彼に言葉をかけた。
『・・・ファース』
『何?』
『・・・ありがとう』
赤い竜は丸まったまま俺の言葉を聞いたあと、しばらくしてから無言で小さく頷いた。そしてそのまま赤い竜はしずかに眼を瞑り、 そのうちにしずかに寝息を立て始めた。その横には、ぴったりと寄り添うように、白い竜も丸まっている。俺はまだ少しだけ目が冴えていた。
『・・・聖なる・・・獣・・・か』
自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。そして何となく、さっきのリーザの言葉を思い出す。
”人間だった自分が、獣の姿に身を落としてしまった事が、惨めで哀れ”
人の言葉も話せない。人の文明らしい暮らしをすることさえもう許されない。10数年生きてきた自分と言う存在を、 根本から否定されてしまったんだ。
惨めだといえば惨めかもしれない。
哀れだといえば哀れかもしれない。
辛くないといえば嘘になる。だけど、俺のために悩み苦しむファースを見ていると、 俺はやっぱりパートナーとしてファースを信頼しているし、必要としていることが理解できた。むしろ、人間と精霊が結んだ契約、 なんていう関係だった今までよりも、ずっとファースを近くに感じる。リーザも傍にいてくれる。・・・不安を落ち着かせてくれる心強さは、 多分こいつ等のお陰なんだ。
・・・だとすれば、ディアは今どれだけ苦しんでいるんだろう。パートナーと、幼馴染を失い、 ただ一人でどうやって過ごしているんだろう。・・・俺に、あいつを救うことは出来ないのか。
そんなことを考えながら、少しずつゆっくりと目を閉じていった。俺に出来ること。俺がすべきこと。・・・ 明日から始めるケルベロスとしての本格的な生活を前に、不安と安堵が入り乱れる胸の中を必死で押さえつけながら、俺もようやく眠りについた。 美しく輝く、星の下で。
聖都のキマイラ #2-1 完
#2-2に続く